第5話 目覚め

 彼女の肌の上で軽やかに踊っていた電子が、突然火花を散らした。

 培養液の中で一瞬白く光った稲妻は、水圧にその轟音をくぐもらせはしたが、その凄まじい衝撃は、彼女の体を弾き飛ばす程のものだった。

 うなじの下の端末に繋がれたケーブルや、手足、胸部や腹部に接続された数々のコードのおかげで壁面に叩きつけられることは免れたが、培養液の中で彼女の細い肢体が大きく跳ねた。


 そして───カワリモノは、目を覚ましたのである。


 長い睫毛に縁取られた目蓋が開き、銀の瞳が再び肌の上を走り始めた微量の

 カワリモノは、ゆっくりと目を瞬かせた。

 視野を把握する焦点が、その倍率を変える。

 水中に浮かぶ彼女自身の体を、そしてカワリモノは初めて見下ろした。


 まず目に入ったのは、白い胸元だった。なだらかで小振りな二つの脹らみは、その先端に届くよりも先に銀紗へとその肌の色を変えている。薄い腹部から華奢な腰、すんなりと伸びた脚へと続くそれは、細い足首の周りで、ゆらゆらとその裾を揺らめかせている。細い両腕にも銀紗の肌が手首まで続き、その先のしなやかな指を持つ華奢な掌は白い。

 目にならそれは、ほっそりとした肢体にぴったりとした銀紗のドレスを纏っているように見えるだろう。

 、彼女達の肌が───装甲がそう設計されていることを、彼女は知っていた。


 長くしなやかな銀糸のような髪が、彼女の肢体の周りで揺らめいている。その中を彩るように、様々な色のケーブルが張り巡らされていた。その一本一本が、彼女の白い肌に、銀紗の肌に、その先端を埋め込んでいる。

 水中特有のくぐもった響きを帯びた駆動音が、ちりちりと走る電子と共にカワリモノを包んでいた。


 カワリモノを中心に放射状に張り巡らされた数々のケーブルは、決して長い物ではない。

 否、それどころか彼女は、ひどく狭い育房室の中に更にケーブルによって固定されていたのである。

 カワリモノは培養液を掻き分けるように、ゆっくりと両腕を持ち上げる。

 彼女の動きを拘束するように一瞬だけ抵抗を感じさせた腕のコードが、次々と呆気なく外れていった。歪みくぐもった音が水中に反響するのを感じながら、水平に伸ばした両腕の先で、指先が滑らかな壁面に触れた。

 ゆらゆらと揺れる銀糸を通して、カワリモノは頭上を振り仰ぐ。


 白い光が、そこにあった。

 、白い光が。


 本能的に、カワリモノは己の項に手をやった。躊躇いもなく、彼女とこの育房室とを繋いでいる太いを、千切らんばかりの勢いで引き抜く。

 白い指先から落ちたケーブルが小さな火花をあげて水中を沈んでいくのと、頭上の白い光がその強さを増したのは、同時だった。

 彼女自身が鍵となっていたことを、カワリモノは当然のように理解していた。


 得るべきものを全て受け取り終えた後に、それを送り込んでいたケーブルを外すことが、閂を引き抜くことと同じ意味を持つ。

 彼女が拘束を解くことが、そのまま頭上のを開くことになっていたのだ、と。


 カワリモノは両脚を引き寄せ、体を丸めた。脚から、丸くなった背中から、体中からコードが外れていく。交差した両腕で折り曲げた細い脚を抱え、くるり、とその中へ埋めんばかりに頭を下げる。

 初めての意志を伴った動きに水中を漂っていた銀の髪が引かれ、一瞬細い背を流れるように円を描く。それが再びゆらりと広がるよりも先に、カワリモノの体は反転していた。


 狭い育房室の中を……両腕を広げるほどしか幅のない外周と、カワリモノの身長の五倍はあろうかという高さの培養液を満たした円柱の中で、カワリモノの体の向きが上下逆になる。

 即座に体を伸ばすと、カワリモノは育房室の底へと潜って行った。

 頭上から射し込む光の帯が、円柱の底にまで届いている。項から引き千切ったケーブルが、カワリモノの肢体からも円柱の各所からも外れたコードが、彼女よりも先に沈下して底にわだかまっている。

 彼女を育んできたかつての自らの一部に手が届きそうになった瞬間、カワリモノは再び体を丸め、反転した。

 わだかまるケーブルやコードごと、軽やかに白い素足が育房室の底を蹴る。ほっそりとした外見に違わぬ、柔らかな動きだった。


 しかしその一蹴りで、カワリモノの体は弓から放たれた矢の如き勢いで水中を切り裂いたのである。

 薄い肩からぴたりと体に沿わせた腕へと、水が奔流のように。水中を漂っていた銀の髪が、細い背中にまるで背ビレのように集約される。頭上を振り仰いだままのカワリモノの顔が、白い光に一瞬にして呑み込まれた。


 そして。

 激しい水飛沫が、誕生したばかりのカワリモノの耳朶を初めて大きく打った。


 水中を───育房室を突き抜けて宙へ躍り出たカワリモノは、ゆるやかに両腕を広げる。まるで翼を広げ大気を孕んだかのように、空へと飛び出した細い肢体が、ふわりと一瞬の浮遊にその動きを止めた。

 刹那、宙に留まった肢体の周りで羽ばたくようにゆるやかに銀の髪が広がり、光を反射した雫が飛び散る。長い銀紗の裾が白い足首の周りで翻った。

 落下のエネルギーを受け流すように、風に運ばれるように、細い両腕がしなやかに頭上へと持ち上げられた。

 銀紗の内から、透明な皮膜が現れる。


 見えない翼に支えられて、ゆるやかにカワリモノは床へと降り立ったのである。


 冷たく滑らかな感触を足の下に感じて、ふとカワリモノは目を落とした。

 透明な床の下に、無数の育房室があった。側壁すらも透明な、足元に規則的に広がる無数の円の中には、しかし、もはや育てられるべき存在も羊水にも等しい培養液も何もないことを、カワリモノは知っていた。

 己こそが、この長い年月の間に数多の姉妹を生み落とし続けてきた胎内に最後まで残っていた一番末の妹であることを、カワリモノは知っていたのである。


 ───もはや彼女以降、生まれ出るべき者の存在が必要ではないということを。


 カワリモノは、顔をあげた。

『巣』の最下層を丸ごと育房室として設えたこのフロアは、高い天井───羽化し、育房室を飛び抜けてくる彼女達を受け入れるに十分な高さの空間を保持した天井があるほかは何もない、がらんとした場所だった。

 天井が一面に白く眩い光を放ち、それは全て透明な床に蓋をされた育房室の奥へと呑み込まれていく。白い光のみに満たされた広々とした空間に異なる色彩を纏っているのは、カワリモノだけだった。


 否。

 カワリモノの目が、彼女の他にもこのフロアに影を作る者の存在を見つけて細められた。


 がらんとした白い光の向こうに、小さな人影があった。

 誰であるか───誰ではないか、その姿を確認するまでもなく明白な人影に向かって、カワリモノは歩を踏み出した。歩くというよりは宙を滑るような足取りで、カワリモノは巨大で滑らかな胎盤の上を渡っていく。

 すぐに、白い空間に刻まれた小さな線のようだった人影は、ほっそりとした女の姿となって白い光の中から浮かびあがってきた。


 長い銀の髪の下の白い細面には、繊細な造りの鼻梁と小さな唇が。長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳と相俟って、その容貌は大人しやかで控え目な美しい造作であると言えるだろう。

 に包まれた肢体はほっそりと儚げで、油断すれば白い光の中に溶け消えてしまいそうだった。


 静かにカワリモノは、彼女の前で足を止めた。

 自分を見つめたままゆっくりと瞬きを繰り返す銀色の瞳を、カワリモノは見つめ返す。その瞳に映る、目の前の彼女と寸分違わぬ己の姿を、そしてカワリモノは見出したのだった。


 瓜二つの女が見つめあったのは、ほんの数秒のことだった。

 カワリモノを迎えに来た姉───そのひとり───は、穏やかな信号をカワリモノの中枢に送り込んで、踵を返した。

『主』のにするなら「おはよう」とも、あるいは「ようこそ」とも取れる信号が己の中枢で再現されるのを感じながら、カワリモノもまた彼女を追って歩を踏み出した。


 降り注ぐ白い光を反射した壁───この広大なフロアの最果てに、ゆっくりと青灰色の切れ込みが浮かび、それはすぐに水平にその幅を広げていった。フロアの眩さのせいでよけいに暗く見える四角く切り取られた自動扉の向こうへと、躊躇うことなく姉が踏み出した。


 カワリモノの見ている先で、細い肢体がふわりと浮き上がり、すぐに消え去る。

 カワリモノも、続いてフロアの先へと踏み出した。

 薄暗く見える空間に、白い素足が踏み締めるべき床は無かった。一瞬、片足をフロアに残したまま、カワリモノの体は呆気なく落下する。


 しかし、細い肢体が落下に傾いだのは、ほんの一瞬だった。


 次の瞬間、踏み締めるべき床の代わりに、まるで圧力そのもののような空気の奔流がカワリモノの身を支えたのである。下から吹き上げてくる気流に恐れ気もなくカワリモノは身を任せ、ふわりと浮き上がった。


 もとより彼女達は、風に乗ることを得意としている。ましてや『巣』をぐるりと垂直に囲う細いシャフトを一方向に循環し続ける強風を───彼女達専用の移動手段である風力エアエレベーターを乗りこなすことなど、のカワリモノにとってさえ容易いことだったのだ。


 強風が巡る以外何も存在しないシャフトには、それでも階層と方向を示す灯が埋め込まれ、速い流れに乗ったカワリモノの目に幾本もの光の柱となって映っていた。

 幾億本もの『毒針』である長い銀の髪と銀紗の装甲の間に通常は格納されている透明な皮膜が、風を孕んでカワリモノの身を軽々と支える。

 どんな強風にも翻弄されることなく自らの意のままに己が身を制御する彼女達は、自在に吹き上げる風に、または吹き下ろす風に乗り『巣』の階層を移動する。そのすべを、カワリモノもまた育房室の中で学習し終えていた。


 風に乗り上昇を続けながら、上空を飛翔する姉を振り仰いでいたカワリモノは、姉の体が優雅に左へと傾斜するのを見て、自らも皮膜の左翼の出力を下げた。

 激しく吹き上げる風の影響などまるで受けていないかのように、ふわり、とカワリモノの身が左へと流れる。

 開け放されたままの、シャフトの壁面に切り取られた出入口が、そこにあった。

 カワリモノは飛び石から飛び石へと渡るような身軽さで、初めて訪う階層へとこうして辿り着いたのである。


 育房室の眩さに比べると、このフロアの薄暗さは風力エレベーターのシャフトのそれよりも、なお深いものだった。

 もっとも、最後の妹であるカワリモノが生まれ出たことで、育房室はその役割を完全に終えたことになる。今頃は全てのエネルギーを切断され、永遠に閉鎖されてしまったはずだ。

 だから、三番目に真の闇に沈んでしまっただろうあのフロアに比べれば、このフロアはまだを分けられているというべきだった。

 穏やかな灰青色の薄闇にぼんやりと、規則正しく並んだ白い光が浮かんでいる。

 ところどころ抜け落ちた四角いそれらが『繭』の先端に表示されたプレートであることを、もちろんカワリモノは知っていた。


 自らの力で生まれ出る───育房室という胎内の全てを振り捨てて新たな世界へと飛び出していく彼女達とは違い、『繭』の中に眠る存在は、決して自ら目を覚ますことはない。

 床面全てを縦に幾万にも分割した育房室に育つ彼女達と、幾万もの『繭』を横に重ねた彼らの、それが違いだとも言えるだろう。

 灰青色の大気の中に、規則正しく楕円形の『繭』が二十基積み上げられている。そのひとつひとつの間を支える支柱の横を、様々な太いケーブルやチューブが走り、低い唸りを奏でている。

 薄闇に沈む紗のかかった透明な『繭』をそうして格納した『繭棚』の間を、姉達が静かに歩きまわっているのが、カワリモノの立つこの場からは見えていた。

 四方を彼女達が三人並んで歩けるほどの幅を空けて等間隔に並んでいる『繭棚』が、奥へそれぞれ五十列、横にやはり五十列あることを、そしてカワリモノは知っていた。


 同じように五万基の『繭』を安置していたフロアが、すでに二層も閉鎖されていることも。

 このフロアの奥へ行けば行くほど、歯が欠けるようにプレートの光が失われていくことも───。


 冷静な眼差しで薄暗く低い生命の息吹に満ちたフロアを眺めていたカワリモノの視界に、『繭棚』の間を粛々と進んでくる姉達の姿が映った。

 任意の『繭棚』の間を行き来する姉達とは違い、彼女達は足取りを揃え、四人で何かを囲うようにこちらへと歩いて来る。

 静かに佇むカワリモノの傍らを、彼女達は無言で通り過ぎて行った。

 風力エレベーターの昇降口へと進んでいく彼女達の中心にあったのは……彼女達が運んでいたのは、一基の『繭』だった。プレートの光さえ失われた暗い『繭』の中に横たわっていたのが黒髪の少年であったことを、見送るカワリモノの瞳は映し出していた。


 たとえ眠り続けていようとも『繭』の中の存在は、彼女達にとっては命とも宝とも……僭越であろうとも愛しい子供とも呼べる、大切な無二の主人であることに違いがなかった。

 いずれその眠りから目覚め、在るべき処へ彼らが帰り着く時、至上の存在である主達によって、彼女達は新たな、絶対的な幸福を享受することが約束されていたのだ。

 少なくとも、姉達はそういるはずだった。


 だが、その尊さを敬い崇められるのは、あくまでも生きていてこそだ。───死んでしまった主であったものに、彼女達が拘泥する必要など全くありはしなかった。

 死した少年を収めた『繭』を囲んで、姉達は風に乗って去っていく。もはや彼女達の主人ではなくなった骸を、『巣』の外へと廃棄するためにだ。


 長い……長い時の間に繰り返されてきた『掃除』は、今も躊躇いなく進められていく。そのペースが加速度的に増していることを姉達が気付いているかどうか、カワリモノにはわからない。

 けれど。


 カワリモノが生まれた、その意味がわからない姉はいないだろう。


 掃除であり葬事である一行を見送ったカワリモノは、ゆっくりと振り返った。

 低い唸りが巨大な脈動のように青灰色の大気を揺らしている。広大なフロアを整然と区切る細胞壁のように建ち並ぶ『繭棚』の間で、いつしか姉達が立ち止まって彼女を見つめていた。


 カワリモノを───新たな局面を指揮する、初めて姉妹の内から生まれ出た変異体である最後の妹を。


『主』達の感覚では『美しい』と称されるであろう、けれど全く同じ容姿の一群を、カワリモノは睥睨した。

 気の遠くなるような永い歳月を『主』達のために生まれ、『主』達のためだけに働き続けてきた同族達に、そして新たな使命を与え、導くことが自らの存在理由であることをカワリモノも姉達も知っていた。

 もっともそれがどういうことであるのか、姉達が理解しているとは、カワリモノは思ってはいない。

 それを理解しているのは、カワリモノひとりだけで十分だからだ。


 カワリモノは、ゆっくりと両腕を広げた。装甲の内側から皮膜が現れる。姉達のそれとは違って飛翔のためだけではない透明なそれが、微かに震える。


 信号が、発せられた。

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