第22話 日常
あれから那智は蛍に会っていない。彼女にはずっと以前と同じ日常が戻り、違うのは出待ちをしなくなったこと位である。
「おはよう滝くん、ユミちゃんは退院したの?」
茶髪の癖毛の親友は最近父親になった。
「おう。里帰りしてるけど、夜泣きが大変らしくて、明け方に電話してくるんだぜ」
愚痴の割には顔が緩みっぱなしである。
「それはそうと俺な、時々蛍と会ってるぜ。あいつ良いやつだぜ。たまにお前の話を聞かせてやるんだ」
彼は蛍と会ううちに友情が芽生え、距離を縮めたようだった。こう見えて滝は抜きん出た棋力を持っているし、歳も近い二人は馬があうらしい。
「私の話はしないで。早く良い
「周りが放っておかないから問題ないさ。蛍はカッコいいし、ついに二冠だしな!」
蛍は連勝続きで、にわかにマスコミが騒ぎ始めているのだ。
「はいはい。友情深めるのはいいけどさ。変なこと言わないでよ」
「それは手遅れ。うっかりお前の職業しゃべっちまった。知ってるもんだと思ったからさ」
「最悪。坂口さんと比べられたら恥ずかしいよ。リストラなのにぃ」
那智は某貿易商の秘書をしているが、不況の煽りで今月末の退職が決まった。
「本当にリストラなのか? よし、育休のユミたんの代理アイドルやれよ」
「はいはい」
那智は肩をすくめたが、彼が本当は自分の為に蛍と連絡をとっている事を知っていた。那智の代わりに、蛍を紀伊家の墓へ連れていってくれた事も、ユミから聞いていた。
「あんたが親友で良かったよ。ほら、賢い子に育てなよ」
那智は出産祝いの『子供囲碁入門書』を差し出した。
「なあ、怪盗村正って誰だ?」
滝の言葉に那智はむせて珈琲を吐き出しそうになった。
「あれは……そう、気分を上げる為に」
「白詰草もか?」
「うん。ほらアニメなんかであるでしょう? 予告状とか」
「蛍、真剣に悩んでたぞ」
「うわぁ。村正はほら、あれから取ったの。『村正の妖刀』っていう難しい定石あるじゃない?」
「ああ、カッコいい名前のやつな……っておいっ」
「花にも大した意味はないの。滝くん、代わりに謝っておいて」
那智は鞄から小豆色の細長い箱を取り出して、滝に渡した。
「これは?」
「いつかの約束の美味しいワイン。卒乳したら、ユミちゃんと飲んでね」
*
滝は蛍の自宅を訪ねた。
「すげぇ。立派な碁盤だな」
「大したことないさ、古いだけだよ」
二人はまず和室の高級な碁盤で一局打った。滝は置き石を置いたが、早々と投了した。
「たまには俺にも手加減してくれよ。指導碁してくれ」
「何故か君には手加減出来ないな。リビングで酒でも飲みながらもう一局どうだい?」
蛍は笑うとキッチンへ行き、グラスにワインを注いだ。
「そういや、あの置き手紙に意味はないらしいぜ」
滝は置き石の数を増やして打ち始めた。
「いや、『村正』にはどちらがが血を見るイメージがあるし、白詰草の花言葉に『復讐』という意味があるんだ。だから、僕は戒めのメッセージだと捉えているよ」
蛍はワインをイッキ飲みして、お代わりを注ぐ。
「あいつはそんなやつじゃないよ。気分を上げたかっただけだって。ほらあいつ、レオタード着ても、セクシーさが足りないから」
「ははは」
滝は白石を囲むとアゲハマを三つ蓋に置いた。滝が共犯である事を蛍は知らないはずだが、彼はその点には触れてこなかった。
「……レオタードは良く似合っていたよ」
「へぇ」
蛍は長考した後、コスミツケて言った。
「それまで見た誰よりも美しかったさ」
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