[5]


「……少し考えさせてもらいます」


 わたしは視線を外し、そう答えた。

 本当は、考えることなどない。

 心の中では、断ることはもう決まっているのだから。

 この人の空想は、自分のささくれだった神経を幾分か癒してくれた。『そんな人がいれば、いつか自分は救われるかもしれない』と。


 だが空想は空想だ。そんな人間がいるはずはない。

 といって、下手にこの場で断って、豹変されても困る。

 今は紳士然としているが、わたしはこの人のことを何も知らないのだ。万一豹変した際、マンガや小説のキャラクターが持つような格闘技術を、わたしは携えていない。

 百六十センチに満たない自分と、百八十センチは優に超えているであろうこの人との身体能力差は歴然である。組みひしがれたら、それまでだ。この場では何も言わず、そっとフェードアウトするのが正解だろう。

 わたしがアーケードを通ることなど、もう決してない。明日からはいつもの道を通ればいい。

 今日もらった空想を弄んでいればそのうちに、今ある傷にも再びカサブタができるだろう。

 そんなこちらの内心を知ってか知らずか、宗像さんは「そうかい」と鷹揚に言った。


「大概はここにいる。採用云々を抜きにしても、気が向いたらまた来てくれたまえ。友達が少なくてね。読書好きと話せるのは楽しい」


「女子高生ならなおさら、ですか?」


「否定はしないかな」


 にこやかにそう言う宗像さんの視線から逃げるように目を伏せ、「ありがとうございました」と言って腰を上げる。宗像さんはその場に座ったまま、


「それじゃあね」


 と片手を上げた。無理に引き留めるような素振りの一切ないことに安堵しながら、わたしは扉まで足を進める。


 ……その歩みの中で、考える。


 確かに張り紙の謎は解明された。張り紙の謎自体は。

 しかし、わからない。


 そもそもこの人は、なぜこんなことをしているのだろう。

 女子高生と話をしたいだけ?

 伊達や酔狂?

 こんな事務所らしきものまで用意して?

 明らかに、気まぐれな遊びという範疇ではない。どこまでが本気なのかのラインが読めない。嘘と本気の境界が見えない。


 犯人を見抜く探偵、か。


 その時、わたしの心の中に疑問の泡が一つプカリと浮いてきて、唐突に割れた。


『一目で犯人がわかる』


 その奇想天外な言葉にボンヤリとしてしまっていたが、これは一体どういう意味なのだろう。

 そもそも『犯人』とは何だ。それを突き止めるのは、フィクションの探偵の役割だ。現実の探偵の業務に『犯人探し』などあろうはずがない。それは警察の役割なのだから。

 扉の前で振り返る。宗像さんはなぜか、ボンヤリと天井を見上げていた。


「あの」


 と声を掛け、こちらに目を向けてもらってから、感じた疑問をそのまま口にする。


「最後にもう一点だけよろしいですか? 『一目で犯人がわかる』というのはどういう意味ですか?」


 その問いを投げることに、特に深い理由はなかったのだ。

 そこまでの覚悟を込めた問いではなかったのだ。

 しかし、現実は自分の意図など無関係に進んでいくということに、わたしは無自覚だった。


「…………実は『犯人がわかる』というのは……正確じゃなくてね。


 ――僕は一目で、殺人者を判別できるんだ」


 暗く言い淀んだ後、宗像さんはそう言った。

 犯人がわかる、と述べた時の冗談めかした雰囲気はそこにはなかった。

 事実を逸らした言葉と、事実を射た言葉の重みの違いが、わたしの体を強かに打った。

 馬鹿馬鹿しく荒唐無稽で、御伽噺めいた空言にしか響かないはずの内容だった。 

 『犯人がわかる』と同質の、いやそれ以上の滑稽さを内に含まねばならないはずだった。

 だが、この発言は嘘ではないという確信めいた直感が瞬時に全身を巡り、精神を蹂躙していく。

 あるいはここに至るまでのすべてが、演出された舞台上の出来事なのではなかったか。

 そんな考えが、頭を過った。


「……殺人者が、わかる?」


「そう。用意周到に準備万端なアリバイ工作をしようとも、前代未聞で僅有絶無なトリックを使おうとも、ね。それが僕の〈力〉だ。だから僕の扱うのは、殺人事件限定なんだ。

 先ほどホームズやらワトソンやら名前を出したが、いや、本格物からは程遠い存在だよ、僕は。

 重ねて言うが、信じられないのも無理はない。胡散臭いという自覚はあるからね。


 っと、帰るところを長々と引き留めるのはよろしくない。これ以上は国家権力が許してくれないだろう。

 ありがとう。久方ぶりに女子高生と話せて大変楽しかった。今日と言う日をジト目記念日と呼ぶことにしよう。……先ほども言ったが、暇があったら、またいつでも来てくれたまえ」


 気をつけ。礼。左様なら。

 もう会うことはありません。


 そう、賢明な理性はわたしに思わせようとしていた。しかしわたしの本能はそれを許しはしなかった。

 頬が紅潮している。

 耳が熱く燃える。

 肺が酸素を求める。

 わたしは、わたしは――――



 ……――気づくと、アーケードの出口にわたしはいた。

 息が荒い。

 走ってここまで来たのだろうか。それすらも覚えてはいなかった。

 ゆっくりと振り返る。

 そこは何事もない、アーケードの風景。見知らぬ人同士が群れを成す世界。

 幾人かが、立ち竦むわたしを怪訝そうに見ていった。

 白昼夢か。逢魔が時か。

 わたしはしばらく、ただ呆然と、さっきまでいた探偵事務所があると思しき方向を見つめていた。雨粒がアーケードの天井を叩く音を、聞くともなく聞きながら。

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