8-3 二人の時間
◆
ヨシノに気づいたヘンリエッタ准尉が顔を上げ、頭を下げた。
「こんばんは、ヘンリエッタさん」
彼女が自分の部屋の前に立っているので、自然と歩み寄る形になった。
いったいこういう時、どうすればいいのだろう。
もしチャンドラセカルの艦長室なら、飲み物のストックもあったが、ここはジョーカーにある個室で、あまりにも忙しいので飲み物も何も置いてない。
部屋に招き入れてお茶も出ない、というのは、ちょっと気が利かないかもしれない。
しかしさて、このまま、お茶を飲みに行こうという時間でもないような気もする。
ではどういう時間帯なのか、といえば、そういう時間帯であって、ヨシノはさすがに頭を抱えそうになった。
それでもいきなり頭を抱え出すおかしな人間になるわけもいかず、見た目は平然と、ヘンリエッタ准尉の前に立った。
「少し、お話がしたくて」
彼女はか細い声でそういった。
その顔を見ると、ジョーカーに来るまでのチャンドラセカルでの彼女より、だいぶエネルギッシュな表情だと気づく。照れているようだが、血色がいいし、肌ツヤもいい。伏し目がちながら瞳にも力があった。
「お忙しいとは思いましたが、その……」
上目遣いにこちらを見るヘンリエッタ准尉に、頬を指で掻きつつ、ヨシノは白状することにした。正直が一番だろう。
「部屋に飲み物の一つもなくて、それに散らかっていますから、別のところで話しましょう」
「食堂は嫌ですよ」
素早くやり返され、思わず忍笑いをしてしまうヨシノである。そんな彼をヘンリエッタ准尉は恨めしそうに見ていた。
「あの人たちも悪意がある訳じゃありませんよ、ヘンリエッタさん。みんながみんな、必死なんです」
行きましょう、とそっと手をとって、ヨシノは歩き出した。少し距離があるが、いつも使っている食堂とは逆方向のドリンクコーナーへ行くことにする。
最初は後ろにいたヘンリエッタ准尉が横に並んでくる。
「元気になって良かったです」
歩きながらヨシノはそう声をかけてみた。反応は、ご心配をおかけして、という声だった。
「大変な任務を押し付けて、すみません。でも、ヘンリエッタさんがいなければ、チャンドラセカルは立ち行きません」
すっとヘンリエッタ准尉がヨシノの方を見上げたので、彼も彼女の方へ視線を向けた。
「チャンドラセカルが、ですか?」
「ええ、そうですけど」
「艦長は、どうなんですか?」
どういう文脈かな、と考えているうちにドリンクコーナーが見えてくる。無人のようだ。
「まあ」
ヨシノは少し考えたが、ヘンリエッタ准尉の言葉の文脈はわからないままだった。ただ沈黙に背中を押されるような形で、言葉を口にした。
「チャンドラセカルは、僕がいなくても、どうとでもなるでしょう。優れた艦ですし、乗組員も一流です」
そういうことじゃなくてですねぇ、とヘンリエッタ准尉が恨めしげな顔になるが、ドリンクコーナーに着いてしまった。
片手では不自由なので手を離すべきなのだが、ヨシノはヘンリエッタの小さな華奢な手を離す気になれなかった。
自分がこういうことを考えるようになるとは、数年前までは想像していなかった。
研究室に籠もって実験をして論文を書き、一部の科学者たちと議論をしたり、未来予想図を思い描くような日々が、もっとずっと続くと思っていた。
それが今、戦場に出入りし、宇宙ドックで女性と手を握って立ち尽くしている?
まるで自分じゃないみたいだ。
「アンナ少尉が」
ぽつりとヘンリエッタ准尉が言った。
「火星か地球へオーハイネ少尉と旅行に行くと話していました」
やっぱり文脈がわからないが、旅行くらいするだろう。
「ヘンリエッタさんもついていけばいいじゃないですか」
途端、ヘンリエッタ准尉が目を細めて冷気を発散させたので、失言だと気付いた。
ちょっと頭が回っていない。アンナ少尉とオーハイネ少尉が旅行に行く? 二人で、ということか。そうか、そういうことか。
「火星はともかく、地球と言っても広いですけど、ヘンリエッタさんはどこの出身でしたっけ?」
「ドイツです。でも両親ともに、イタリア生まれです」
「何度か僕も行ったことがあります」
そう口にしてから、やっぱり違うと気づいた。
「その、ヘンリエッタさん、仕事が全部片付いたら、その……」
あまり軽々しいことも言えないが、軽々しいことが自然と口をついて出てしまう日もある。
「一緒に僕が好きな場所へ行きましょうか」
「どこですか?」
「日本の田舎で、祖父母が旅館をやっています。湖のすぐそばで、ボートで釣りをしたりもできますし、夏は花火が上がります。周囲は山に囲まれていて、静かです」
素敵かもしれませんね、とやっとヘンリエッタ准尉が花が開くように笑った。
それを見たときに、自然と行動していた。
すっとヘンリエッタ准尉を抱き寄せ、唇を合わせる。
離れると、やっとヘンリエッタ准尉が先ほど口にした言葉が、チャンドラセカルにヨシノが必要か、ではなく、ヨシノにはヘンリエッタが必要か、という意味だとわかった。
これで天才などと呼ばれるのだから、人間はわからないものだ。そう思って笑いながら、ヨシノは律儀に返事をすることにした。
「僕にもヘンリエッタさんが必要ですよ」
顔を真っ赤する彼女を抱き寄せて、ヨシノはそのまましばらく、動きを止めていた。
(続く)
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