8-3 奇策

     ◆


 ヨシノ艦長が発令所に戻ってきた時、すでにヘンリエッタ軍曹が敵性艦を捉えており、副長であるイアンに報告しているところだった。

「状況を」

 ヨシノ艦長はどうやら冷静さを取り戻したようだ。イアンは報告を始めた。

「艦の装甲は交換作業が終わりました。現在、セイメイとオットー軍曹が、シャドーモードを起動するための同期に必要な設定を行っています」

「それは僕にもできる。手伝いましょう。続けてください、イアンさん」

 言いながら、ヨシノ艦長は端末から手元にキーボードを引っ張り出し、それをものすごい速さで打ち始めた。でたらめに打っているような速度だ。

「破損した血管は交換作業が終わっています。燃料液の損失分は予備のものでかろうじて足りています。循環器のシステムチェックは八割ほどが終了。あと五分ほどで終わるでしょう。エネルギー循環エンジンも問題なしです」

「艦自体の損傷は?」

「武装に関しては、魚雷発射艦の二番が修復不能な損傷です。一番は生きています。それと、右舷の一部の区画は現状、気密が維持できていません。酸素の供給を止めた上で、ブロックを閉鎖してあります」

「人的被害は?」

「火器部門に所属する兵長一名と、一等兵二名が、行方不明です。医務室には五名が運ばれています」

 こくり、とヨシノ艦長が頷いた。

 この艦の航行が始まって、初めての大きな損傷と、戦死者だった。

 イアンは少しだけ、この若い青年、天才だとしても民間人からいきなり軍人になり、艦長という重責を担っている人物が、ここで崩れていくのでは、と危惧を抱いた。

 まるでそれを否定するように、ヨシノ艦長の十本の指は速さを変えることなく、キーボードの上を動いている。

「敵艦、回頭しています」ヘンリエッタ軍曹からの報告。「こちらを捕捉したようです。距離は〇・五スペースほどまで迫られています。例の輸送船は全方位のどこにも見えません。おそらく離脱したものかと」

「レーザー兵器の様子は?」

「動きはないように思います。あまりにも遠すぎて、この艦の空間ソナーでは詳細がわからないんです。申し訳ありません。音の様子では、三十スペースほど先になります」

「位置を登録して、常に射線から逃れるようにしましょう」

 どうやってですか? と質問したのはインストン軍曹だ。

「撃たれた数秒後には命中しているんですよ。回避は不可能です」

「やり方があるさ」

 そう答えたのはオーハイネ曹長だった。

「敵艦をチャンドラセカルとレーザー砲台の間に挟んでやる。そうすれば奴らは仲間を撃つことを避けるために、躊躇わざるをえない」

「敵艦が急機動で射線を通す可能性がある」

「だそうですよ、艦長?」

 オーハイネ曹長がヨシノ艦長を見る。イアンもヨシノ艦長を見た。

 彼は穏やかに笑っていた。その手元で一つのキーが音高く押され、キーボードは端末に収納された。

「やってみましょう、とにかく、僕たちはこの場から逃げ出す必要がある。セイメイ、シャドーモードの様子は?」

 電子頭脳が遅滞なく答える。

「現在、システムをチェックしています。二分ほど、お待ち下さい」

「良いでしょう。オットーさん、艦は動かせますか?」

「はい、艦長。循環器のチェックは今、完了しました。起動しますか」

 お願いします、とヨシノ艦長が頷き、オットー軍曹が報告を続ける。

 循環器、起動。わずかにチャンドラセカルが揺れた。メインモニターの隅の数字が増えていく。四十までは赤い色だったのが、それを超えると黄色に変わり、今度は七十を超えたところで青に変わった。

 数字は七十五で上昇を止め、安定した。

 脈拍七十五は、巡航出力だ。

「血管に異常はありませんか?」

「全艦の血管に問題なし。出力、安定しています。エネルギー管理、問題ありません」

「エネルギー循環エンジン、起動」

 了解、とオットー軍曹の冷静な返答。

 メインモニターに映っている艦の外部カメラの映像が動く。艦が動き出したのだ。

「オーハイネさん、進路を二〇−七二−二六へ。速力七十」

「了解です、艦長」

 艦が旋回を始める。

 ヘンリエッタ軍曹の悲鳴のような声が上がる。

「敵艦隊、進路を変更しています! このままでは、準光速航行により、こちらの頭を押さえられます!」

「時間の余裕は?」

 ヘンリエッタ軍曹が即答する。

「十分ほどでこちらの進路を妨害されます。レーザー砲台にも動きらしきノイズがあります」

「二度目はありません」

 はっきりとヨシノ艦長が宣言し、そしてゆっくりと発令所を見回した。

 そして、確かに笑みを見せた。

「今回は逃げるとしましょう。オットーさん、装甲をシャドーモードに。循環器の脈拍を三十に設定し、推進装置も停止させてください。スネーク航行の必要もありません」

「なんですって?」

 勢いよく振り返ったオーハイネ曹長に、ヨシノ艦長が身振りで落ち着くように指示した。

「これからこの艦は、誰からも見えない、ただの漂流物になります。敵はこちらが残す残滓を探そうにも、残滓はほとんどありません。エネルギー循環エンジンの痕跡すらないのですからね」

「しかし発見されたらどうするのですか?」

 疑り深げなオーハイネに、さあ? などと艦長が答えている横で、イアンはじっとモニターを見ていた。

 シャドーモードは正常に機能している。循環器システムも最低限の機能で、血管から発生するエネルギーは装甲におおよそ食いつぶされている。

 大型バッテリーのエネルギー蓄積量をチェック。さすがは艦長、とイアンは唸りそうになった。

 バッテリーには、今の循環器の出力と合わせて、スネーク航行を起動する程度の残量がある。

 敵に発見される可能性が高まれば、それでこっそりと逃げ出す算段だろう。

 かなり際どい賭けだが、負けと決まっているわけではない。

「敵艦隊、通常航行に戻ります」

 ヘンリエッタ軍曹の声と同時に、モニターの隅に唐突に大型艦船が五隻、出現した。

「敵艦のデータを記録しておいてください」

 ヨシノ艦長の声に、小さな声でヘンリエッタ軍曹が答えた。

 チャンドラセカルは、ゆっくりと宇宙を漂っていた。



(続く)

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