君とこれからも

 西日が眩しくて引いたカーテンが、大きく風をふくんでアタシたちの頬を撫でていった。


「ねえ、キョウちゃん聞いてる?」


 中途半端に伸びすぎた髪が乱れて顔にかかるのが鬱陶しくて、押さえつけたそれを耳に引っ掛ける。


 目の前のキョウヤはつまらなそうに頬を膨らますと、持っていたシャープペンシルを鼻と上唇の間に挟む。テストも近いのでこうして放課後勉強会を二人きりの教室で日々開催しているわけだが、当の本人はまるでやる気がないらしい。


「まったく、集中力が幼児並みなんだから」

「だってわかんないんだもん」


 唇を尖らせ挟んだシャープペンシルを落とさないように喋ってみるものの、それはカツンと音をたてて机の上に落下した。普通なら怒るべきところなのだろうが、残念そうにちぇっと呟いたキョウヤの口がまだシャープペンシルを挟んだ形のままなのがおかしくてこみ上げる笑いが抑えられない。アタシの手元に転がってきたそれを拾い上げ、キョウヤの鼻の下に戻してみる。


「だもんじゃないわよ。キョウちゃんが教えてって言ったんだからね」

「だってね、ヒロ」


 満足げな顔でそれを挟んで受け取ったキョウヤだったが、再び口を開いて落下させる。


「バカじゃないの?」


 机から転がり落ちそうになるシャープペンシルに反射的に手を伸ばしたのは二人同時で、お互いの手を掴み肝心のシャープペンシルはそのまま床まで落ちていった。


「あーあ」


 身を乗り出し、それを拾ってあげようとしたのだけれど、掴んだアタシの手をキョウヤが放さず、それは叶わなかった。


「キョウちゃん?」


 大切なものを拾うみたいに両手でアタシの手を包み込み、引き寄せる。そしてそっと頬を擦り寄せた。


「俺はヒロと一緒にいたいだけ。そのためだったら勉強だってしようと思うんだよ。思うんだけどさ、体がついていかないっていうの?」

「脳みそと忍耐力が、でしょ?」

「そう、それ、にんたいにんたい。ヒロくん見てると時々こう、むらむらっとしてこらえきれなくなるんだよね。どうしたらいいと思う?」

「急に何の話よ!」


 指先をぱくりとくわえられ慌てて手を引っ込めようとしたけれど、キョウヤの両手にしっかり捕らえられたアタシの左手は簡単には動かなかった。もちろん、本気で引き抜けばできないわけではない。腕力勝負ならばキョウヤには勝てる自信がある。けれど、それをしてしまったらキョウヤが悲しむのだろうと思うとそこまで無理に拒絶するほどのことでもないように思えた。


 中指の腹に軽く立てた歯がそこを甘噛みし、指先が熱い舌で濡らされる。

 アタシはただ、いつになく熱に浮かされたような甘い表情をするキョウヤから目が離せず、ぞわぞわするような指先の感覚を追っていた。


「ヒロはさ、結構いろんなこと受け入れてくれるよね」


 やがて名残惜しげにアタシの指を解放したキョウヤの濡れた唇は、どこか切なげに言葉を発した。


「どこまで許されるのかなって、試してみたくなるじゃん」


 それは言葉とは裏腹に、期待ではなく失望を含んでいるように見えた。


 広げたノートの上に頬を乗っけたキョウヤは、うつろな目で窓の外を見やり、ため息をひとつこぼした。


「俺はさあ、ヒロ、このままでいいと思ってるんだよ。恋人になんてなってくれなくても、こうして一緒にいられるだけでいいんだ、本当に」


 その言葉は多分キョウヤの本心だ。妥協とは違う。今が十分満たされている。

 それでももっと上があるのは知っている。最上を望まないわけがない。

 けれど、今のままでいいのだと、アタシが言わせている。


 いろんなことを受け入れてくれているのは、本当はキョウヤの方だ。コンプレックスもまるごと、ありのままのアタシを受け入れてくれる。脳みその許容量は限りなく小さいが、その分器が大きいのではないかと思う。何の計算もなくただ純粋に、素の自分でいることを許されることがアタシにとってどれだけ嬉しいことなのか、きっと本人は気付きもしないのだろう。


(ごめんね、キョウちゃん)


 口には出せず、胸の内だけで謝った。自分でも思い通りにならない胸の底に固まる思いは、いつか解けていくのだろうか。一生こないかもしれないその時までキョウヤは待っていてくれるだろうか。


 机に向かってさらりと流れるキョウヤの黒髪を梳くようにそっと撫でる。


(この先は、すごく怖いのよ)


 臆病なアタシには、全く怖い物知らずなキョウヤが時々とても恐ろしい。けれど同時に強く憧れる。キョウヤの望む場所はとても魅力的であるが故に怖く、飛び込むことはとてもできそうにない。


「ヒロの手、気持ちいい。やべっ、俺寝ちゃいそう」


 キョウヤはひなたぼっこ中の猫みたいに目を細め、嬉しそうに頬を緩めた。


「今のままでもヒロは俺がお願いしたらキスだってしてくれるし、手だって繋いでくれるし、全然いいんだけどさあ、俺も男の子じゃん、欲を持て余す瞬間もあるわけ。そんな時はどうすればいいと思う?お願いしたらヒロくんが…」

「しないわよ、バカ!そういうのは普通、自分で何とかするの」


 机の上の頭に拳骨を落とす。珍しく真面目な話をしていると思ったのにオチが酷すぎる。


「いったいよ、ヒロ。覚えたやつこぼれ出た」

「最初から空っぽだったわよ」

「そうだっけ?おかしいなあ、ヒロと勉強してたのに」


 顔を上げたキョウヤの頬にノートに書いた文字がうっすらと写っていた。


「残念ながら脳みそじゃなくてほっぺたで覚えてるわよ」

「ん?」


 手を伸ばし、赤くなったキョウヤの頬を指でこする。文字はすぐに消えたけれど、意外にやわらかい頬の感触をしばし楽しんだ。


「取れた?」

「消えちゃったからもう一度最初から勉強しようか?」


 反対の頬にも触れ、両手でぎゅっとキョウヤの顔を押しつぶす。


「はい、ヒロ先生…」


 愛しく思う気持ちはアタシの中にもある。

 だけど今はこのままがいい。

 君とこれからもずっと一緒に。



<終>

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