あの時の指輪

 いまいちうまくまとまらない髪をああでもないこうでもないと洗面所でいじっていると、不意に脇腹をつつかれてアタシは妙な悲鳴を上げた。


「ちょっと、やめて、サエちゃん」


 いつの間にか背後に忍び寄っていたのは3つ年上の姉、冴だ。


「ずいぶん気合い入ってるじゃない。もしかしてデート?」


 日曜の朝からオシャレをしている弟をニヤニヤと鏡越しに値踏みするような目で眺める。


「べつにそんなんじゃないわよ。ちょっと友達と約束してるだけ」


 キョウヤと映画を見に行く約束をしただけ。それだけだ。デートだとかそんなつもりではないし、気合いを入れているわけでもない。ただ街に出る身だしなみとしてよそ行きの格好をしているだけだ。深い意味なんて何もない。姉たちの影響で普段からわりと見た目には気を遣う方なのだ。


「ただの友達相手にしては気持ちがノッてるじゃない?よし、お姉様が誰もが振り向くいい男にしてあげるわ。ほら、貸して」


 自分的にはいつもと同じだと思うのに、姉の目はいつもとは違う何かを感じ取ったらしい。変なものを感じられても困る。困るけれど、ここで逆らうわけにはいかないのが我が家の上下関係である。手にしたワックスを奪い取られ、あとはもうよろしくお願いしますと姉のしたいように任すより他にアタシに選択肢はない。


 しこたま髪をいじられた上、洋服まで姉チョイスに変更され、雑誌の中のモデルみたいに仕上げられた。悔しいけどセンスはいい。ちょっと派手目で目立ちすぎるかなというのが玉に瑕だけれど、格好良いのは間違いない。


「ほんとにデートだったらよかったんだけどね…」


 キョウヤ相手にこの格好は正直どうかと思う。どう見ても気合い入れすぎな感じが寒い。それでも姉の作ったこれにケチを付けることは自ら死ににいくようなものだ。


「しょうがないわね」


 キョウヤの喜ぶ様が目に見えるように思い浮かび、姉から解放された部屋で一人大きなため息をついた。

 そしてふと思いついて机の引き出しを開ける。


「この格好だったらアクセサリーのひとつでもつけないと様にならないじゃない」


 誰へともなくそんな言い訳を呟き、キョウヤにもらったきりしまいっぱなしだった指輪を取り出した。以前キョウヤがはめてくれたところに戻そうとして、思いとどまる。


「それはないわ、アタシ」


 ぶるぶると首を横に振り、逆の手に持ち替えて右手の薬指をくぐらせた。





 待ち合わせ場所の時計の前で柱にもたれて佇んでいる間にいろんな人に声をかけられた。いわゆる逆ナンというやつがこんなに普通に行われていることに驚きつつ、姉の腕の確かさを実感しつつ、今の自分にはかなりありがた迷惑であることも身にしみた。


(キョウちゃん、早く来て)


 人にちやほやされるのは慣れているけれど、断り続けるのは結構きつい。

 何度も携帯に目をやり、キョウヤからは何の連絡もなく、そしてまだ待ち合わせ時間に達していないことを確認してがっかりする。


 時間を守るという観念がキョウヤにあるのかどうかは微妙なところだ。おそらくキョウヤ的にはあるのだろうが、結果がなかなか伴わないのが実情なのだ。寝坊をするとか支度が間に合わないとかそういうことではなく、単純に待ち合わせ場所までまっすぐに来られないおバカさんだからだ。乗る電車を間違えたとか、切符を買い間違えたとか、歩く方向を間違えたとか、そういう時間ロスで結局間に合いませんでしたということがままある。普段であれば気の長いアタシはそんなキョウヤをのんびりと待っているのだが、今日はそんな心の余裕がない。

 こらえきれず、キョウヤに電話をかけた。そうしていればきっと声をかけられることもないだろう。


「おはよう、ヒロ」


 ノーテンキなキョウヤの声が聞こえてざわざわしていた心がすっと落ち着くのを感じた。


「もう着いた?俺ももう着くから待ってて。今電車下りて歩いてるとこ」

「今日は場所間違ってない?」

「だいじょーぶ。…だと思うよ?」


 歩きながら喋っている息づかいでキョウヤは不安なことを言う。まるで違うところへ向かっている可能性も拭い去れない。そんな前例はいくつもあるのだ。


「早く来てよ。ちょっとここ居辛いというか何というか…」

「そうなの?じゃあ急ぐね。あ、ほら、時計見えたよ。…って、ちょ、ヒロくん…!?」


 何やら言葉にならない声を発したかと思うとぷつりと通話が途切れる。そして、どかどかと慌ただしくキョウヤが駆け寄ってきた。


「どうしたの、ヒロくん、超かっこいいんだけど。芸能人でも立ってるかと思ったよ」


 周りで見ているたくさんの女子の心情を代表したみたいなことを大きな声で言う。


「もしかして、俺のためにおめかししてくれた?」


 出かけに想像したのをはるかに上回る幸せ満開な笑みを浮かべた顔がぐっと目の前に近づく。


「違うわよ。サエちゃ…姉に散々遊ばれた結果こうなっただけだから」


 居たたまれなくて目を逸らす。


「サエちゃん最高!ねえ、ちゅーしていい?」

「いいわけないでしょ。バカじゃないの?」


 公衆の面前で、ただでさえ視線を集めているのに冗談じゃない。ぐいとキョウヤの顔を押し戻し、早く行こうと腕を引っ張る。とりあえずこの場から離れたかった。暗い映画館に入ってしまえば一目を浴びることもなくなるだろう。





 映画が始まるまでまだかなり時間があるからか、館内の人気は疎らだった。外より幾分か暗い照明の中、チケットに印刷された番号の席に二人並んで腰を下ろした。真ん中後方の、スクリーンが見やすい高い位置だ。


「やっと落ち着いたわ」


 入り口で買ってきたコーラで喉を潤し、大きく息を吐く。


「俺も一緒に逆ナンされちゃった」


 黙っていればハンサムなキョウヤは私服だとどれもが洗練された高級品で一段と男前度がアップする。だからここへくるまでたくさん声をかけられたのはアタシのせいだけでもないと思うのだけれど、キョウヤに自覚はあまりないらしい。


「キョウちゃんだってモテるくせに」

「俺のは財産目当てだから違うの」

「なにそれ」

「俺をただの俺として見てくれる人は案外少ないんだよ」


 らしくなく、妙に達観した顔でキョウヤは寂しそうに呟いた。ただのおバカさんではなく、その環境のせいで過去にいろいろあったのだろう。庶民のアタシが想像できることなんて現実に比べたら陳腐なものなのかもしれない。けれど多分、お金に絡んだ人の汚い部分をたくさん知っているのだろう。それでもあんなに純粋でいられるのはもしかしたらすごいことなのかもしれない。


「ヒロはそういうの全然気にしないから好き。や、違うな。そういうのも全部ひっくるめて俺は俺として見てくれるから好き」


 照れくさそうにえへへと笑いながらキョウヤはアタシの手を握り、指を絡めた。


「あっ!」


 絡めた手に視線を落としたキョウヤは不意に大きな声を上げる。


「キョウちゃん、声大きい」


 映画は始まっていないが、しんとした館内では大きすぎるボリュームで、疎らに座る人たちの視線を集めてしまう。反省したように口を押さえたキョウヤは、人々の視線が離れていくとその手で繋いだアタシの手を撫でる。


「俺があげた指輪、してくれたんだ」


 今度はボリュームを抑えて、耳元に顔を近づけて囁く。アタシの右手とキョウヤの左手が絡まるそこに銀色に光る高級そうな指輪を愛おしそうにキョウヤの指がなぞっていく。


「こういう格好だとアクセサリーが似合うの。指輪とか他にあんまり持ってないし」


 別にあんたのためじゃないんだからね、なんてアニメのツンデレキャラが言う決まり文句みたいなことは恥ずかしかったので胸の中だけにとどめ、言い訳だけを並べた。


「へへ、嬉しい」


 結局どんな言い訳を並べようがキョウヤの前では何も言わないのと同じ。どんな理由であれ、きっとその事実だけで彼を喜ばせるのだ。そんなこと最初からわかっていて、ただの照れ隠しだから別に構わない。キョウヤの嬉しそうな顔が見れたらアタシは満足だ。思い切って着けてきた甲斐がある。


「キョウちゃんは…つけてないのね」


 てっきりキョウヤはつけてきてアタシの指にそれがなければひとしきり拗ねるものだと思っていたのだけれど、彼の指には左右どちらにも何もついていない。お揃いの指輪なんて恥ずかしいと思いながらも、心のどこかで残念がっている自分がいる。アタシも相当なバカだ。


「あ、俺ね、いつもここに着けてんの」


 キョウヤは首もとに手をやり、そこにある細い銀色のチェーンを胸元から引っ張りだす。そこにお揃いのリングがぶら下がっていた。

 ネックレスとしてオシャレに着けているというよりも、鍵っ子の小学生がなくさないように首から鍵をぶら下げている感を強く感じてしまうのはなぜだろう。大事なものはこうしてなくさないようにするんだと、お父さんからこんこんと言われているちっちゃなキョウヤの図を想像してぷっと吹き出す。その教えを未だに守ってるのね、と勝手な想像をしながら、だけどこれがほぼ正解だろうと確信していた。


「なに?なんで笑ったの?だって、俺、どこかに置いたら絶対忘れちゃうじゃん。こうしておけば絶対なくさないんだよ?」


 ほらね。


「そうね、えらいわね」


 もう、可愛くて可愛くて、爆笑しながらキョウヤの頭をなでなでする。子供がそのまま大きくなってしまったキョウヤのおバカで純粋で真っ直ぐなところがたまらなく好きだ。恋心というよりも友情というよりも、多分、赤ん坊や動物を見た時に誰もが抱くような感覚に似ている。


「なんかすごいバカにされてる気がするー」

「してないしてない。超ほめてるわ」

「じゃあ、ちゅーして」

「しないわよ、バカ」

「ちぇっ」


 本当はぎゅっと抱きしめて嫌がられるほどキスの雨を降らしてやりたいぐらいの愛おしさを感じていたりするのだけれど、まだ照明も落ちていないここでそれをする勇気はアタシにはない。だってキョウヤは赤ん坊でも動物でもなくて、高校生の男の子なのだから。


 でも。


 映画が始まって照明が落ちたら、一回ぐらいしてやってもいいかな、なんて悪戯心がちょっと頭を擡げる。

 恋人のキスなんかではなく、ただ可愛いものにちゅっちゅするだけ。


(だけど驚いたキョウヤが映画の最中に大声を上げないように口を塞いでやるのがいいかしら)


 大切そうにまた指輪をシャツの首もとから中へ滑らせてきちんとしまうキョウヤの横顔を見つめながらこっそりそんなことを考えた。



<終> 

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