第29話

 雲一つない夜空の下、小さな影が訓練場にうずくまって木の板を握っている。

 夜闇には満月と、それを囲うように光る満点の星々だけが浮かんでいる。

 秋の澄み渡った空気と凛と煌めいている星畑は混じり溶け、人々を惹きつけようと一心に輝きを放っていた。

 されど、常より明るい月光でも人の顔を映すのがやっとだ。

 文字を読むには心許ない光の中、影……もとい美琳メイリンは、空を仰ぎ見るなどせず木簡もっかんだけを真剣な眼差しで耽読していた。

 昼間に受けた浩源ハオヤンの授業を思い出しながら――――――







「いいですか。国にはそれぞれ名前があります」

「名前?」

「ええ。これは後宮は勿論、王宮では常識になりますのでしっかりと覚えてくださいね」

 浩源はいくつかの文字を書き記すと、美琳に一つずつ説明していく。

「まずこちらの“修”。これは“シュウ”と読み、我々の国のことを指します」

「ふぅん。でも町中じゃ誰もそんな風に呼んでませんでしたよ?」

「そもそも平民貴女たちは文字を学ばないでしょう」

「あ、それもそっか」

 浩源は淡々と次の漢字へと指をすべらす。

「そしてこちらの“剛”は“ガン”。この“鳳”は“フェン”と読みます」

 美琳はこくこくと頷く。

「“ガン”は隣国の名前で、“フェン”は山向こうの大国を指します」

「ってことは……今度のいくさでは剛と鳳が手を組んだ、ってことですか?」

「そういうことになります」

 浩源は正しい答えを導けた生徒を褒めるように優しく微笑む。

「まあ元々剛と鳳は同盟関係にあったので、ある意味当然の成り行きだったんですけどね」

「同盟って何ですか?」

「そうですねぇ……お互いに仲良くしましょう……いやちょっと違いますね。何かあったら協力しましょうね、と約束を交わした。そんな感じですかね」

「なるほど」


 美琳が納得したそのとき。

「あのぅ……」

「ん?なんですか?」

 二人のいる部屋に一人の兵士がやってきた。

「浩源さん、護衛長がお呼びです」

「おや、そうですか。どんな要件か聞いてますか?」

「たしか“次の戦について話したい事がある”って言ってました」

「ふむ……分かりました」

 浩源はすっくと立ち上がると、美琳を見下ろし、それはそれは嬉しそうに口角を吊り上げた。

「それでは美琳さん。文字の書き取り練習をしておいてくださいね?後で見に来ますからね」

「え」

「今教えた国名もお願いしますね」

「え……」

 美琳は愕然とした表情で文机の周りにある木簡の山を見つめ、そして窓に振り返る。外の太陽は大分低くなったものの、まだ赤く染まる気配はない。

「ではまた」

「え、ちょっ…………嘘ぉ」

 美琳は悠然と立ち去る浩源を追いすがるような目線で見送るのであった。







「うううぅ…………もう!こんなの覚えきれないに決まってるじゃない!相変わらず厳しいんだか優しいんだか分かんない人だわ!」

 美琳メイリンは唸りながらも、月の光を借りて木簡に書いてある文字をブツブツと呟いて反復している。

 結局、あの後戻ってきた浩源に“もう少し頑張りましょうね”と落第点をつけられてしまったのである。

「私なりに頑張ったのに、何よあの言い草……」

 そう言いつつも、美琳は一心不乱に木簡に目を通し続ける。と、不意に木簡が読みやすくなっていることに気づく。

 ハッと顔を上げると、正面にはがしゃがんで美琳を見つめていた。

「えっ!嘘、あなたどうしたの?森の中にいるときみたいじゃない!」

 光はそれを聞くと、すっくと立ち上がって誇らしげに点滅する。

「すごいすごい!じゃあこれでいつでも会えるのね?」

 だがその言葉に対しては首を振った。

「そう……でもまた会えて嬉しいわ。ここにいる間はもう会えないと思っていたから」

 光はもう一度座り直すと、美琳と目線を合わせて今度は優しい輝きを放った。

「うふふ、ありがとね。でも大丈夫よ。文生ウェンシェンに会うまではこれくらいじゃ挫けないわ」

 すると光は美琳に寄り添うように隣へと移動し、美琳の手をそっと握った。

 美琳はくすぐったそうに眉尻を下げる。

「うん、まあ、窮屈ではあるわ。普段はこんな風に気軽に話せないし、案外やること多いし」

 光はうんうんと相槌を打つと、美琳の頬に手を添えた。

「ん?なぁに?」


 そう美琳が問いかけた瞬間、光の顔に黒い裂け目が生まれる。

 口のように広がっているの奥には虚無が広がっていた。闇のように深く、水のように静かな、そんな虚無が。そして、背筋がぞっとするような冷たさがあった。

 しかし美琳は動じることなく、光がどうするのか見守っている。

 光は黒い裂け目をゆっくりと開閉させて何か音を発そうとしている。

「ん、ごめん、よく聞こえなかった」

 美琳は光に聞き返す。と、今度こそはっきりと聞こえた。

「メイ、リン。ダイジョウブ。キット、ナレル」

 そう、ゆっくりと呟いた。

 美琳は一瞬目を見開く。が、すぐさま満面の笑みになる。

「うん……!うん、そうね、あなたが言うならきっと間違いないわね!」

 少女は心底嬉しそうにすると、木簡をぎゅっと抱きしめた。




 それを見た光は満足気に点滅すると、そっと立ち上がる。

「……もう行っちゃうの?」

 こくり、と光は首肯する。

「そっか……寂しいわ」

 美琳は光を見上げる。

「あのね、もうすぐいくさがあるの。今度はとても大きいんですって。だから、しばらくはここには戻れないと思うの」

 少女の瞳が揺らぐ。赤子が母を求めて泣くような、そんな切なさをたたえた瞳が。

 それに光は応える。

「マタ、クル……イトシゴヨ」

 そう言い残した光はゆっくりと消え始め、闇へと吸い込まれていった。







 満天の星空の下には、少女ただ一人だけが残されていた。

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