第26話

 静かな執務室に、トン、トン、トン、と木の板が揃えられていく音が規則正しく流れる。

 勇豪ヨンハオは寝息のようなゆっくりとした呼吸を繰り返しており、顔から手を退ける気配はない。

「……お前との付き合いもそこそこ長くなったな」

 美琳メイリンいぶかしむ。

「急にどうしたんですか」

「いやな、こう、この歳になると少し思うところが増えんだよ」

 勇豪は節くれだった手で体を起こす。

「俺も本来なら後を任せる奴を見つけなきゃならん頃だが、どうにもな。まだ若いもんに負けるつもりはないし、今の軍に俺を超えられる奴もいねぇんだが、万が一ってのもあるし……」

 珍しく美琳が無言で彼の言葉を待つ。

「それに……次のいくさはかなりでかい」

 勇豪はかつてない程真摯な目を向ける。

「だからよ、お前には「お待たせしました」


 勇豪の言葉は浩源ハオヤンの声でき消された。

「おや……邪魔してしまいましたか」

 お盆を持って戻ってきた浩源が、勇豪と美琳を見比べる。

「多分、大丈夫かと」

 そう言った美琳の声色は毛を逆立てた猫を彷彿ほうふつとさせる。

 勇豪は雰囲気が変わったせいですっかり毒気を抜かれ、大きなため息を吐く。そしていつも通りの気取ってない表情に戻ると、ついでに違和感の正体を美琳にこっそりと聞く。

(お前何でそんな浩源を嫌ってるんだ?)

 美琳も小声で返す。

(嫌いというか……あまり会ったことないけど、こう、逆らったら後が怖そうっていうか……)

(ははっ!よく分かったな。あいつ怒らすと怖ぇぞぉ)

 勇豪は彼女にも苦手なものがあったことを知り嬉しそうにする。……が、ふと気づく。

「おいお前、それって俺は怖くねぇってことか?」

「あ。浩源さん、手伝いますよ」

 美琳は勇豪のもの言いたげな目から逃れるために立ち上がる。

 浩源は二人の様子を気に留めることなく彼女の申し出をやんわりと断る。

「大丈夫ですよ。慣れてますから」




 言葉通り、浩源はてきぱきと支度を整えていく。

 執務室備え付けの食卓に盆を置くと、水差しと茶碗を並べていく。

 勇豪は嬉々として食卓につき、美琳は少し離れた位置に座す。

 浩源が水差しを持つ。

 土製の水差しにはぐるりと細かい文様が刻まれており、よく見ると動物たちが駆けているような模様もある。平民の使う、壊れなければ十分、という質素な形の器とはまるで違うおもむきがあった。

 美琳は初めて見た作りの水差しをまじまじと見つめる。

 浩源はこれまた丁寧な装飾が施された茶碗に水を注いでいく。

 その水からは仄かに甘い香りが沸き立ち、三人の鼻腔びこうをくすぐる。

 美琳はその正体がどうしても気になり、浩源に尋ねる。

「それってお酒ですか?それにしては匂いが違うような……」

「ああ、そうか。美琳さんは飲んだことないですよね」

 浩源は得心がいったという顔をすると、ひとまず勇豪に茶碗を差し出す。そしてもう一杯注いで美琳にも茶碗を渡すと、秘密を共有する悪友のような顔で囁く。

「本当は良くないのですが……特別ですよ?」

「えっ、ありがとうございます」

 美琳は予想外の対応をされたことに戸惑いつつも大人しく受け取る。と、器が近づいたことで謎の液体の匂いが強くなる。

「……?どこかで嗅いだことある気が」

「それは桃の果実水ですよ」

「え!桃?!」

 美琳は大きく目を瞠る。

「さすがにこれは飲んじゃダメと思うんだけど……」

「だからなんですよ」




 この国で“桃”という果実は特別な意味を持つ。

『不老不死』の象徴である桃は王侯貴族にしか食べることが許されておらず、中でも王族に献上する桃は専用の樹が育てられてる程に格別の扱いを受けている。

 そして平民が口にすれば重い刑罰が下されるので、貴族以下の身分の者は桃の花と香りしか知らないのが当たり前、そういった存在なのである。

 そんな果実をそのまま食するどころか、水に漬けて飲むなど平民には到底考えられないことだった。




「何かの罠じゃないですよね?」

 困惑しきった美琳の様子を、浩源はにこにこと見つめる。

「ある意味では罠かもしれませんね」

「はぁ?」

 途端、美琳の持ち前の気性の荒さが顔を出す。

「そんなもの誰が飲むっていうの」

「ふふふ、まあそうなりますよね。でも貴女には必要なことかもしれませんよ」

 ますます美琳は眉間に皺を寄せる。

「……次は隣国だけでなく、山向こうの大国も参戦するようです。そこで貴女には…「浩源」

 今度は浩源が言葉を遮られる番であった。

 勇豪は声を発した直後、ぐっと茶碗をあおる。

 果実水を飲み干すと、美琳にも飲むように促す仕草をする。




 美琳メイリンは二人の意図が全く分からなかった。でも勇豪ヨンハオが“良い”と言うなら大丈夫なのだろう。

「じゃあ……」

 こく、っと遠慮がちに一口飲むと、初めて味わう甘くて爽やかな味が口の中いっぱいに広がる。

 普段、勇豪の前では仏頂面なことが多い美琳もこの時ばかりは花が零れ落ちそうな笑みを浮かべる。

「そうか、美味いか」

 勇豪も日頃とは比べ物にならない、柔らかい表情になる。そこには子供を見守る父親のような愛情が垣間見えた。

「もし、お前が……」

 少し迷うような口振りで勇豪は話し始める。

「もしお前が、王の……文生ウェンシェン様の後宮に入れりゃこんくらいは毎日のように口に出来るようになる。だからまあ、今の内に味くらいは知っておいて損はないだろ」

「!もし、じゃない。絶対に行く」

「ははッ!そうだったな。だが俺だって、一応はお前が動きやすくなるようにしてやっただろう?」

 勇豪は指を折りながら“軍に入れた”“戦い方を教えた”“護衛兵に引き立てた”と数え上げる。

「全部あなたにとって都合が良かっただけでしょ」

「それは否定出来んな!」

 勇豪は大きな笑い声を立て、空になっていた茶碗を食卓に置く。そして美琳の頭を軽く撫でると、文机に戻って何事もなかったように木簡もっかんに向き直る。


 ここ数か月で徐々に増えていたを美琳は甘受するようになっていた。だからこそ、いつもと違った勇豪の様子に気づいていた。

 でも、それが何だって言うのだろう。

 文生に何か起こった訳ではないようだし、ただ大きな戦があるというだけで何故二人はこんなにも違った様子になるのか。

 美琳は理解出来なかった。唯一つ、手に持つ水が極上の味であること以外は。

「さて。護衛長もやる気になってくれましたし、美琳さんもそれを飲みきったらまた続きを手伝ってくれますか?」

「え、あ、はい」

 美琳は慌てて一気に茶碗の中身を飲み干す。

 そこでふと気づく。

 飲んだところで『喉が潤う』訳ではないのに、初めて『もっと飲みたい』といった心持ちになった自分がいることに。

「……まだ残っているので、もう少し飲みますか?」

 浩源が美琳に申し出ると、彼女は大変嬉しそうに頷いた。

 先刻までの警戒した様子と打って変わった少女の様子に浩源は微笑む。

 もう一度茶碗を果実水で満たして差し出す。美琳が嬉々として受け取ろうと近づいた瞬間、彼女の耳元に囁く。

(次の戦では庶人出身の兵で活躍した人を士*に取り立てる予定らしいですよ)

 美琳は大きく目を見開く。

(まだ他の兵には内緒にしてくださいね)

 と言い残すと、浩源は素早く身を離して水差しを食卓に置く。

「ね?言った通りでしょう?だって」

 浩源の線を引いたように細い目からは瞳が見えない。

 だが美琳は彼の表情などどうでも良かった。

(次こそ、次こそ近づけるのね?)

 少女の茶碗を持つ手に力が入る。

 浩源は満足気な表情で自分の文机に戻り、勇豪と同じように作業に戻る。


「美琳。時間がねぇんだ。飲み終わったらさっさとやれ」

「ん、分かった」

 美琳は最後の一口を美味しそうに飲み干す。

 そして彼女が浩源に指示を仰ごうとしたそのとき。"ああそうだ"と勇豪が呟く。

「浩源、明日から合間見て美琳に文字を教えておいてくれ」






 *士…貴族階級の名称。士は貴族の中では最下級であり、政治には関与出来ない身分である。

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