第18話
広大な
今年の夏は例年より暑さが酷い。青く敷き詰められているはずの田園は茶色に浸食され、豊かな河もいつもより細く痩せて大地の活力が根こそぎ吸い取られている。
猛暑と飢えで死者が増え、埋葬も追いつかずに死臭が町全体にこびりついている。
そんな中、隣国との
気がつけば、二人が別の道に歩んでから一年が過ぎていた。
いよいよ戦が間近に迫ると、兵舎は慌ただしくなる。
兵糧の確認、武装の確保、人員の補充。それだけでも手一杯なのに、市中の死体の処理にも駆り出されている。
戦が始まる前に全滅するのでは、などと囁かれる程、兵士たちの疲労の色は濃厚であった。
それは指揮する立場の人間も同じだ。
「そこ!ちんたら歩いてるんじゃねぇ!そんな暇ねぇんだ、役に立たないならすっこんでろ!」
頭一つ飛び抜けた
そのせいで常よりも沸点が低く、些細なことでも声を荒げる。
兵士らはピリピリとした空気に怯えながらも、暑さを堪えて馬車馬のように働いた。
そんな中、美琳は涼しい顔で淡々と働いている。
彼女が勇豪の近くを通ると、汗まみれの彼に声をかけられる。
「お前、随分と余裕そうじゃねぇか。暑くねぇのか?」
「え?あー……暑いですよ?ただ人より暑いのも寒いのも平気なだけで」
美琳が目線を
「ほう、羨ましいこった。ならまだ体力は残ってるな?」
「そう、ですけど……面倒なのはちょっと……」
「……」
「わ、分かったわよやるわよ。もう、何すればいいんですか!」
美琳はもう一歩で勇豪が再噴火する気配を感じ、大人しく従うことにした。
そうして任されたのは兵舎と宮殿を行き来して双方の連絡役となる仕事だった。
広大な敷地の王宮では、建物同士が一定の余裕を持って建てられている。中でも宮殿と兵舎はかなり離れていて、尚且つ道中に木陰がほとんどない。
日頃の連絡役はあまり忙しくない仕事である。適宜休息が取れてそのことはあまり問題にならない。
しかし時節柄、ひっきりなしに往復せねばならず、いつもの連絡役が暑さでへばって使い物にならなくなってしまった。
さて代理役を立てねば、となったがそんなきつい仕事は誰も志願しない。
そこで暑さに強い美琳に白羽の矢が立った、ということのようだ。
美琳は
宮殿に辿り着いて木簡を渡すと、また違う木簡を渡される。さらには
(これは普通倒れる、はずよね……)
と、五度目の往復で独りごちる。
タッタッタッと小気味良い足音で駆けながら、美琳は悩まし気な顔を浮かべる。
(別にこの仕事が嫌な訳じゃないけど、どのくらいで『疲れ』なきゃなのかピンと来ないわね。本当なら辛い仕事なんだろうけど……)
少女の顔からは一滴も汗が見えない。息も乱さずに六度目の宮殿へと向かう。
六度ともなると、斜め上に立っていた太陽が西に腰を下ろそうとしていた。
紅い屋根がさらに朱く染まった宮殿を見るともなしに見ると、何やら華やかな着物の行列が階段を降りている。どうやら式典が執り行われているらしい。
目を凝らしてその集団を観察すると、最後尾に黄色の着物が確認出来た。
直後、全力で駆けて一行の一人一人の顔が見えるところまで近寄った。
傍には兵士仲間が護衛しており、美琳を視認すると頭を下げるよう身振りした。
慌てて木簡を地面に置いて地に顔を伏せたが、美琳は盗み見ようと何度も試みる。
しばらくすると視界の端に黄色の着物が横切る。
思わずがばっと頭を上げる。と、目が、合った。
会いたくて会いたくて、毎日想った愛しい人。
早く彼を守れるようになろう。早く彼の隣にふさわしくなろう。そう一途に想い続けた人。
どんな困難も、どんな悲しみも、どんな楽しみも。すべて彼と分かち合いたい。早く、早く、早く!
彼が、あたしを忘れる前に。
美琳の目に涙が浮かんだ。もちろん『嬉しさ』から。久しぶりに心からの笑みがこみ上げた。
一年振りの
前よりも少し大人びた顔は、嬉しそうであり、寂しそうであり、縋るような表情だ。
かつての恋人たちが見つめ合っていると、護衛兵士が慌てて美琳の頭を下げさせる。同時に式典の進行を合図する音楽が鳴る。
ハッと文生は行列を振り返る。瞬間、村の素朴な青年の顔は消え失せ、
彼はそのまま歩みを再開させ、美琳を
一行が立ち去ると、
文生は村にいた頃とはまるで違い、それでいて変わっていなかった。
美琳はホッと力が抜け、涙がぽろぽろ零れ落ちた。
まだ大丈夫、まだ間に合う。まだ、待っていてくれた。
美琳は村で十分に学んでいた。自身と他人の時の流れが違うことを。
だからこそ、時間を惜しんで強くなった。
でも、きっともうすぐだ。今度の戦で絶対に功績を上げてみせる。そしてもう誰にも文生との仲を邪魔させない。
そう決心し直した。
美琳は着物の袖で顔をごしごしと擦ると、すっくと立ち上がった。赤くなっていた目元は、もう普段と同じ美しい光を宿していた。
「うおッ!急に立ち上がるなよ美琳」
「え?あぁ!ごめんなさい」
美琳が立ち上がったすぐ後ろには護衛当番の兵士が立っていた。なかなか動かない美琳を心配して覗き込んでいたようで、美琳の顔と彼の顔が近くにあった。
兵士は薄く頬を染めると、パッと美琳から体を離した。
「いや、いいんだ、大丈夫だから……!そ、そういえばおまえ、王と同じ村の出身だったっけか。だからって式典中に王のご尊顔を見るなんて不敬だぞ?」
「うん、分かってる。でもつい、一目見たくなって」
美琳は兵士に適当に返答して地面に置いていた木簡を拾い集めると、再び宮殿へと駆けて行く。
兵士が見送った彼女の足取りは、とても軽やかだった。
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