エリスの伝記

辰巳杏

前編

第1話:炭鉱

 頂上が近い。マウントポラリスの頂上の光が、だんだん強くなってくる。私が子どもだった頃に、この光を、ここからはるか遠くの街から見つめていた。あのときは頂上の光が本当に存在するのか、少し疑ってた。


 でも、今ここに来て、光は確かにあるのだとわかる。


 大山歴928年9月3日



 **********



 ヒビの入った窓から、はちみつみたいになめらかな朝日が差し込んでいる。私は陽の光を受けて眉をひそめた。


 また最悪な一日が始まろうとしている。このみすぼらしい藁ベッドの上で眠って、そのまま目覚めなきゃいいのに、なんてことを毎朝考える。


 現実逃避にあれこれ考えても仕方がなく、ベットから飛び起きて大急ぎで身支度を済ませた。朝ご飯なんて食べる時間もお金もない。さっさと家を出て炭鉱へ向かった。


 私は小さなときから炭鉱で働いている。同じくらいの年齢の女の子はみんな学校に行って、友達と勉強したり遊んでいるだろうが、自分には頼る家族もいないため、自分で稼いでひとりで生きていかなければならなかった。毎日みっちり働かされて、賃金も低いし、いったいなんのためにこんなことを続けているんだろうと思うけど、私にはひとつだけ希望があった。


 炭鉱に向かう途中の、街の人混みの中で私は顔を上げた。遠くに巨大な山・マウントポラリスが見え、その頂上が光り輝いている。空が曇っていようが、嵐が来ようが、あの山の頂上はいつも変わらず光っている。


 なぜ山の頂上が光っているのか本当のことは誰も知らない。登頂した者がいないか、登頂した者が街に戻ってこないからだ。頂上が光っている理由についてはいろいろな噂があり、あそこに神様がいるという話が一番信じられていた。そして、頂上にたどり着いた者に最高の恩恵が与えられるとも言われている。最高の恩恵が何なのか具体的なことは伝わっていないが、願いが叶うことと信じている人が多い。


 どんなに嫌なことがあっても、あの光を見れば気持ちが穏やかになり、まだ頑張れると思えてくる。私にとって、あの光だけが救いだった。


 本音を言えば、遠くから光を見るだけじゃなくて、マウントポラリスに登ってみたい。これといった願いがあるわけでもないし、登る途中で死んでもいいから、とにかくあの光を目指してみたいのだ。あの光を目指すことを生きがいにしてみたかった。




 炭鉱前の広場での朝礼を終え、持ち場の坑道に向かう途中、後ろから声がかかった。


「よう、のろま!」


 ウルサだ。炭鉱員で私と同じくらいの年であるにもかかわらず、身体が大人より大きいため逆らう者がおらず、いつも威張っている。ウルサは私を見かけると、けなしたり嫌がらせをしたりする。ひどいときは暴力をふるわれる。反抗したところで、最終的に力で押さえつけられるのが目に見えているから、当たり障りのない反応をしてやり過ごすしかなかった。たちが悪いことに、ウルサは仕事ができるため大人たちに一目置かれており、私に対する迫害が大人たちに黙認されていた。


「……おはようございます」

「相変わらず暗ぇなあ。あいさつもできねぇの」


 ウルサはつるはしの側面で私の頭を軽くたたいた。


「すみません」

「何に対してのすみませんだ。ただ謝ればいいってもんじゃないだろ」

「すみません。あいさつが暗かったことに申し訳なく思っています」

「わかりゃいいんだ。仕事ができねぇんだから、あいさつくらいできないとなあ? ああ、謝ることに関しては一人前だけどな」


 ウルサは馬鹿にしたようにニヤニヤ笑うと、気が済んだようで私を追い越して走って行った。今日はいつもよりましで助かった。


 運の悪いことにウルサとは持ち場が同じだった。今日もこれから嫌がらせが続くことを考えたら憂鬱で仕方ない。ウルサが見えなくなってから深くため息をついた。


 ウルサが私を迫害する理由は、私がちびで女であることだろう。つるはしで掘るには女や子どもはどうしても力不足だから、坑道内のレールに乗せたワゴンに石炭を入れて運ぶ、いわゆる運び屋という仕事をしていた。ただ運ぶだけとはいっても、それなりに力が必要になる。ここで働く女たちはみな大柄で力のある人たちばかりで、そのなかでも私は小さい方だった。だから運ぶのにも時間がかかるし、悔しいがウルサにのろまと言われても仕方がないほど仕事が遅かった。ウルサが掘った石炭を私が運ぶのだから、他の坑道に比べて効率が悪くなってしまい、結果としてウルサの足を引っ張ることになる。これが迫害の理由だった。


 坑道の入り口に置いてある空のワゴンを押しながら坑道に入る。ここからはずっと薄暗くマウントポラリスの光も届かないし気分がだんだんと落ち込んでくる。こういう暗いところで考え事をしても悪い方向にしか行かないから、私はひたすら無心でワゴンを押し続けた。そうして坑道内を何往復かしたところで昼になり、最後の石炭を坑道の外に運び出して休憩に入ることにした。


 炭鉱前の広場の隅に食堂がある。ここで焼きたてのパンがひとつ配給され、それが私の楽しみだった。運良くウルサはすでに仕事に戻っており食堂にはいなかった。ウルサの機嫌が悪いときはパンをとられてしまうから、時間をずらして休憩に入ることはとても重要だった。パンを配給人から受け取り、食堂の隅のほうのテーブルに座ると、前に座っている二人組の炭鉱員の会話が聞こえてきた。


「聞いたか、ウルサさんって冒険家になるつもりらしいぞ」

「本当か! いやー、あの人なら冒険家としてやっていける気がするな。俺、前に一度だけあの人とケンカみたいになりかけたけどさ、全然歯がたたなかったよ。なんというかさ、ただケンカが強いとかそんなんじゃなくて、その、なんだろ……」

「狡猾、か?」

「ははは! それ聞かれたら殺されるぞお前。まあでも、そういうことだな。冒険家なんて、なまやさしいやつじゃなれないだろ。そういう点でも向いていると思うよ」

「そうだな。いいなあ冒険家か、俺もなれるもんならなってみたいよ」

「はは、やめとけ、自殺するようなもんだ」


 ――ウルサが冒険家に。


 なぜだかわからなかったが、心臓をわしづかみされたような気分だった。同時に、涙がこみ上げてきそうになった。


「冒険家」とは、マウントポラリスを目指す人たちのことだ。この街はマウントポラリスに最も近く、街の北門が山へ向かう出発点となっていた。


 そして、冒険家のほとんどは途中で命を落とす。冒険家が危険な仕事だといわれるのは、マウントポラリス周辺の自然環境が過酷だということもあるが、何よりも異常に凶暴な生物群が存在するせいだった。マウントポラリスを目指すなら、当然、危険な生物に遭遇する。ただの人間なら、あっけなく喰われる。でも、ウルサのように力が強ければ。凶暴な生物の裏をかく、ずる賢さがあれば。


 ウルサは体力のある炭鉱員の中でも群を抜いて強いやつだ。この仕事に満足して冒険家を目指さないはずがない。炭鉱で働いて、ある程度資金が貯まったらマウントポラリスに向けて出発するつもりなのだろう。そう考えればウルサが冒険家を目指すのは当然のことだと思うし、冒険家に向いているとも思うけど、なぜか私には事実を受け入れることができなかった。


 持ち場に戻ったが、どうにも仕事がはかどらず、ウルサに遅いと言われ、叩かれる始末だった。そのまま夜になり、そろそろ上がれるかもと思いながら石炭の入ったワゴンを押しているときに、何か嫌な予感がした。


 立ち止まって顔を上げると、額から汗が流れ落ちた。そのとき、汗でぬれた頬にパラパラと何かがかかった。おそるおそる頬に手を触れると、砂のようなものが付いていた。


 ――逃げなければ。


 考えるよりも先に駆け出していた。パラパラと砂が落ちてくるのは落盤の前触れだ。気のせいでもいいから、こういうときは一刻も早く坑道から出ると決めている。しばらく走っていると、案外入口に近いところにいたようで、入口にある灯りがすぐに見えてきた。


 そのとき、大きな地響きが起こった。私は揺れに耐えられず転んでしまった。立ち上がろうとするけど上手くいかず、バランスを崩して倒れる。


 目の前に光が見える。


 ──あともう少しなのに……!


 遠くに見える入口の灯りは、マウントポラリスの光のようだった。

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