第2章 紫さん、出稼ぐ

第10話 初めてのスリ

 雑多な足音と共に、暗色の背広を着た人々がごった返す通勤ラッシュの駅前。

 その群衆の中に私は紛れて歩いていた。

 昨日届いたばかりのオフィスカジュアルな服に袖を通し、ちょっと使い込まれた風の中古のトートバッグを肩にかけ、慣れない人混みに少し顔を青くしながらも平静を装って改札をくぐる。

 電光掲示板を見ると、通勤特急が来るのは5分後だそうだ。

 私は1号車付近の女性専用車両の列へと並ぶと一息吐いた。


(こ、こ、こうしていると、まるで普通の社会人にでもなったみたい……)


 ふとそう思った。化粧はしていないものの身だしなみは人並みに整えているし、服装も会社員っぽい。何より——。


 ――誰も奇怪なモノを見るような目でこちらを振り向かなかった。


 今までは伸び切った髪に部屋着で、平日の真昼や深夜にコンビニへ足を運んでいたものだから、人とすれ違おうものなら二度見や三度見されるのは当たり前。

 悪い時などはこちらに聞こえるような陰口を言われたり、勝手に写真を撮られたこともある。

 しかし、今や私は奇抜な出で立ちからは卒業して、社会人その他大勢へと完全に溶け込むことができていた。


(あ、ありがとう……あかりちゃん……!)


 多大な協力をしてくれたあかりちゃんへと心の中で再び感謝の念を紡ぐ。

 そうしているうちに通勤特急の電車がホームへと入ってきた。

 そろそろ思考を、これからやるべきことに切り替えなければならない。

 私は決して、就活のために電車に乗るわけではないのだから。

 ターゲットはすでに見つけている。

 緩いパーマを当てた中年女性の持つチャックなしのトートバッグに目を据えたまま、私は満員の車両の中へと体を押し込んだ。


「――ぅぅ……」


 電車が動き始めて早々に、私は情けない声を上げていた。

 通勤ラッシュが初体験の私にとって、満員電車は身体的にかなりキツい。

 ネットで噂に聞いていたものの、駅のスタッフが人を物のでも扱うようにグイグイと車両へと押し込むのだ。

 それでドアを閉めるものだから中の人々の状況たるや、身体は斜めになるし荷物は潰されるし隣の人の肘は食い込むしで悲惨なものだった。

 しかしそんな中でも、私は何とかくだんの中年女性の背後の位置を取ることができていた。

 彼女は車内のあまりの窮屈さから少しでも逃れようと全体重をこちらへと掛けるようにしてもたれかかり、目は瞑っているようだ。

 私は視線だけを左右に動かして周囲の側の様子を確認する。

 私の両隣には若い女性が2人、苦しい体勢ながらも上手い具合に身をよじってスマホをいじることに夢中なようだった。

 こちらを気にかける様子はゼロだ。

 再度、中年女性の持つトートバッグ、その中から頭を覗かせている長財布を見る。

バッグの広いクチは満員電車に潰されても形を崩さずにその中身を露わにしており、途中で引っかかりそうな障害も無い。


(と、盗れる……)


 そう思って手を伸ばし始めた時、私の頭に余計な思考が駆け巡る。


 ――これは先日の公園のように楽な条件ではないぞ?

 ――周囲に人もいるし中年女性本人も起きている。

 ――見つかってしまったら最後、言い逃れはできない。

 ――車両から連れ出され、囲まれて、糾弾されて、連行される。

 ――本当に大丈夫か……?

 

 一瞬にして、自分の鼓動が速まるのが分かった。

 頬を一筋の汗が伝う。

 私は伸ばしかけていた手を引っ込めて、その汗を拭った。

 覚悟は決めてきたし、何度もシミュレーションもしたはず。

 それなのに。


(な、なんで、こんなにも周りの目が、音が、邪魔なんだろう……?)

 

 今私がやろうとしていることを、周りの全ての人々が凝視しているかのような錯覚が私を襲う。

 

(そ、そんなはずはない。誰も、気が付いていないはず……)


 でも、本当にそうだろうか?

 満員電車なんて乗るのは初めてなんだから、もしかしたら人目を引くような過ちをしていないとも限らない。

 もしかしたら、もしかしたら。

 そう考え始めると途端に、自分に対する疑念が際限なく噴き出してくる。


 ――まだ髪が長かったかもしれない。

 ――染めていないのがおかしいのかもしれない。

 ――化粧もしていないし、

 ――だから、顔色が悪いのかもしれない。

 ――それとも服がおかしい? もしかして鞄との取り合わせが悪い?

 

 クスクスと笑われるような幻聴さえしてきたその時。

 突然、隣で若い女性のため息が聞こえて、ビクリと身体が反応してしまう。

 それは過去に私の姿を嘲笑をした影が頭によぎっての反射的な行動だった。

 ぼさぼさの長い髪に擦り切れた部屋着で差された後ろ指から逃げるように走った経験は、今でも私の中にどんよりとした黒い雲を作っている。

 だから、今も刷り込み的につい自身の恰好を確認してしまった。

 それは確かに被害妄想的な癖だったが、しかし今回はそれがプラスに働いた。

 自分の恰好を見て、それから両隣の人たちの恰好を見比べる。


(あ、あぁ、大丈夫だ……。わ、私は今、普通の恰好ができている。)


 あかりちゃんに切ってもらった髪は綺麗に纏まっているし、服だって新しく恥ずかしくないものだ。

 私は、周りと違わない。ちゃんと溶け込めているのだ。

 するとそう意識できただけで、鼓動の速さは次第に落ち着いて、狭まっていた視野はスッと広がった。

 隣の女性たちはまだスマホに夢中。ターゲットも変わりはない。

 周囲を再確認すると、今度は自分の胸へと手を当てる。


(い、今の私は誰が見ても普通の人。誰からも視線を集めることはないんだ……)


 入念にシミュレートしたように、手をスルリと中年女性のトートバッグの中へと差し込む。そして浅い鞄の中から頭を見せていた長財布を掴んでゆっくりと引き抜き、流れるように自分のバッグへと滑り込ませる。

 時間にして5秒足らず。それだけで、全てが完了していた。

 それからしばらく進んだ先の停車駅で中年女性は車両を降りる。

 スリに本人が気付いた様子はない。

 その背中が見えなくなるまで見送っていると、いつの間にか自分が手をグッと握りしめていることに気が付いた。

 心の中に、徐々にほの暗い自信が芽生えるのを感じる。 

 私は通勤ラッシュが終わるまでの間に、この路線で同じことを3度繰り返した。

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