第3章 紫さん、カーストを見る
第15話 無力さ
平日の朝、いつも通りの通勤時間帯に部屋を出るとマンションの外で何やら言い争っているかのような2つの声が聞こえてくるのに気が付いた。
階段を降りた先、駐輪スペースのところで2人の女子高生が声を抑えながら、それでも感情的に何かを言い合っている。
そのうちの1人は私もよく知っている、同じマンションの同じ階に住む女の子、あかりちゃんだった。
なるべく足音を殺したつもりではあったけれど、彼女は階段から姿を現した私に気が付くと、いつもなら元気な声でかけてくれる挨拶も無しに駅に向かって走り去っていってしまう。
「ちょっと、あかり! 待ってよ!」
その後ろ姿に制止の声をかけたのは私ではない。
あかりちゃんと何やら言い合いになっていたもう片方の女の子だった。
何となく聞き覚えのある声だなぁ、と記憶を巡らせているとキッとした視線を伴ってその女の子がこちらを振り返った。
「ひっ!?」
引きこもり生活に終止符を打ってから1か月半、そろそろ不特定多数の他人のいる場への進出は慣れてきた頃だけど、こうやって見ず知らずの人に意識を向けられるのは依然としてダメなままだ。
さらにそれが怒りなどの感情のこもった視線ならなおさらで、私はその目力だけでヘビに睨まれたカエルのようにすくみ上ってしまう。
(お、怒られる……!?!?)
しかし、私のそんな不安に反して、女の子は不機嫌そうに顔を背けると駅に向かって早足で歩き始めた。
何を言われるやらとドキドキしていた胸に手を当ててホッと一息を吐く。
そうして私もその女の子に追いつかないようにゆっくりと歩いて駅に向かいつつ、そういえば最近あかりちゃんの元気が無い理由というのは先程の女の子と関係があるのだろうかと思い至る。
困っているなら力になってあげたい。
けど……。
(わ、私はそもそも高校なんて行ったこともなかったから、何の力にもなれなさそうだなぁ……)
あまりの自分の頼りなさにがっくりと肩を落とす。
しかし歩きながら、本当に原因はそれだけなのかなと、ふと思った。
さっきのあかりちゃんの反応は何だかいつもと違うおかしさがあった。
友達との言い合いを見られて恥ずかしかったから、言い繕うこともできずに走って行ってしまった?
何というか、年齢の割りにすごく世間慣れしていて周りへの気配りを忘れない、そんなあかりちゃんらしくない反応だ。
そのちょっとした違和感に胸騒ぎを覚えたその日の夕方、帰り道で生気が抜け落ちたように顔を白くする彼女を見かけて、私はようやくただ事ではない事態が起こっているのだと気がついた。
陽射しが傾いて赤くなり始めた空の下、あかりちゃんは川沿いの道の並木道を、何を考えるでもない様子で歩いていた。
「あ、あかりちゃんっ」
駅を出てその後ろ姿を見かけたので、私は早足でゆっくりとした歩調の彼女に追いつき声を掛ける。
「あ……お姉さん」
「マンション……そっちじゃないよ? い、行き過ぎてるよ」
今彼女が通り過ぎようとした十字路は左に曲がらなくてはならない。
あかりちゃんは思い出したように周りの景色を確認する。
その時僅かに正面から見えた彼女の顔色は、悪いなんてものじゃないくらい弱々しく儚いもので、それが私の胸の内を不安で満たす。
そしてやはり反応もおかしい。
普段ならここで照れてはにかむくらいはしそうなものだけど、あかりちゃんはただ目を伏せて「すみません」と一言こぼすだけで、そのままマンションへの道を歩き始めた。
「ど、ど、どうかしたの……? あかりちゃん、最近元気がないみたいだけど……」
黙っていてはそのまま置いて行かれてしまいそうだったので、私は後を追いかけて歩きながらそう言葉を掛ける。
「……いえ、何でもないんです。ボーっとしちゃっててすみません」
「で、でも……ぜ、絶対、様子がおかしいよ?」
あかりちゃんは答えない。でもこれが答えの代わりにとばかり歩調を速めた。
しかし、それに突き放されず私は食い下がって隣に並ぶ。
「も、も、もし、悩みがあるなら、は、話すだけで楽になる、かも……多分……」
言葉は尻つぼみに小さくなったものの、ちゃんと届いたようだ。
あかりちゃんが驚いたような目をして、今日初めてこちらに顔を向けた。
その気持ちは痛いほどわかる。少しでも私と話したことがあれば、私がどれほど自分から喋るのが苦手なコミュ障かがわかるだろう。
だからこそ、そんな私が自ら人に関わろうとする言葉に驚いたのだと思う。
私自身、そんな自分の姿勢にびっくりしている。
でも、それはきっと、それだけ私の中であかりちゃんという存在が大きいものだということ。
あかりちゃんの足が止まる。
「お姉さん……気持ちは嬉しいです」
「そ、それじゃあ……!」
「でも――お姉さんじゃどうにもならないことなんです」
私を真っ直ぐに見つめるその目に宿っていたのは、とても哀しげな感情だった。
それは自分の置かれたどうしようもない状況に悲観してなのか、何もかも打ち明けて寄り掛かれるほどの頼りがいがない私に対しての諦観によってなのか、はたまたその両方なのか。
わからなかったけれど、しかし彼女はきっと私には何も話さない。
それだけはわかる。ひどく私に不甲斐なさを感じさせる瞳だった。
「今日は、失礼します」
「――あ……」
あかりちゃんはそれだけを言い残すと先に歩いて行ってしまう。
私は今度こそ、その背中を追っていくことができなかった。
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