拘縮
西丘サキ
拘縮
自分の小さな胸が嫌いだった。
小学生の頃には何も思わなかった。だけど、周りが第二次性徴をむかえ、声や身体や興味が変わってくると途端に自分の体が、何の変化も見せないこの胸が嫌いになり始める。胸がないだけで「女性」どころか「ヒト」としても否定されているような空気があった。胸の大きな同級生を見る男子の好色な視線。そして私を見る呆れと蔑みを含んだ視線。「オンナ」として用をなさないし、かといって「オトコ女」としてイジるポジションにも置かれることのない――そんなものになりたいと思わないからせいせいするけど――コミュニティの中に場所を与えられない私がいた。
――私もあんたみたいに小さかったらよかったなー
同級生の言葉を思い出す。彼女はクラスどころか、学年で比べても明らかに胸の大きな子だった。胸が大きくたって良いことなんか何もないよ、とため息をつく。胸が小さくたって何も良いことないよ、と思うしそう口に出した。でもさー、毎日毎日おっさんとか男子がじろじろ見てくんだよ、ウザくない?と返されて私は黙る。彼女の中で、彼女の持つ悩みを持ちえない私は悩みなんか存在しない、うらやましい人だった。
――私はなくて良かったかなー。男役もやりやすいからいろんな役できるし、もし胸あったらサラシ巻かないとね。
演劇部にいる子がそんなことを言う。たしかに、人数の兼ね合いか何かで彼女が何回か男役をしているのを覚えていた。付き合いで見に行ったつもりで、知らなかった彼女の一面を見せつけられたようでどきどきした。でも同時に、うらやましく思う。好きなこと、やりたいことに堂々と身を投じている姿。私もそんな風に自信を持てるものがあれば、胸のことなんて気にしないだろうか。
今思えば、あの男子の蔑んだ視線と、悩むことや悩みを打ち消すような特徴や強みを持たないことをまざまざと女子の言葉が、私の奥底でずっと煮立っていたのかもしれない。
大学に入ると、少しはみんな自制心を持ったようで、私への視線も和らいだ。ゼミでもサークルでも、私の言葉や行動やちょっとした仕草に気を向けてくれる。バイト先では相変わらずの視線や言葉が流れ弾のように時折やってきていたけど、それでも私はようやく、私の意味と価値を築いていける気がした。
彼氏もできた。同じサークルの、同い年の子。おとなしくて美形でもないけど、優しくて私の話を聞いて共感してくれる。私の好きなことを好きでいて、彼が知らなかったことも興味を持ってくれる。こんなに価値観の合う人がいると思えないくらい、素敵な人だった。
私は勇気を出して、彼に確認した。胸の小さい人を、私をどう思うか。ある時は遠回しに、ある時は直接。そのたびに彼は同じ言葉を返した。
――胸が大きいか小さいかなんて気にしないよ。それに、君を好きになったのはもっと別のところに惹かれたからだしね。胸の大きさなんて関係ないよ。
何度聞いても聞きたくなる。安心したいから、嬉しくなりたいから。私は幸せだった。私を満たしていた嫌いが溶かされて、代わりに彼が見出してくれた私の価値が注がれていくような気がした。
あの時までは。
その日は確か夏休みで、人出も多かった。歩行者天国になった大通りはまさに雑踏で、入り組んだ人の流れで動きづらい。私は彼とくっついて手をつないで、離れないように歩いていた。夏の暑さと人の熱気で蒸している。お互いの方向と自分の身体を置けるスペースをわかっていないと誰かにぶつかってしまいそうだった。
ふいに彼の首が左から右に動いていく。そっちに行くのかな、と思って私は右を向き、その方向に行こうとした。
大きく胸の空いた服を着た大きな胸の女が私の目の前を左から右へ通っていった。
気づけば私は彼の顔を見ていた。目が合う。彼は気まずそうに前を向き、先を急ごうと促した。こんな混雑から抜けたかったからその場は何も言わずに従う。だけど私はあの顔を忘れない。思わずいいものを見つけたような、心の惹かれた顔。ちょっとした僥倖にほころぶ、下心のさらけ出たにやつき。こんな時に、彼の表情で見るとは思わなかった。見たくなかった。後々慎重に言葉を選んでやんわり問い詰めたら謝ってくれたけど、私の心は晴れない。こんな日は暑くて蒸れるから、なんてこともわかっていても、あの女が憎かった。いや、あの女の胸と私の胸が憎かった。
彼が私に注ぎ、満たしていた私の意味が、価値が、汚泥のように穢らしく変色していくのを感じた。
やっぱり私は、自分の小さな胸が嫌いだ。
だから私はここにいる。
私は小さく区切られた個室に、カウンセラーを名乗る女性と向かい合っている。彼女は傾聴もなく心理学的なことも一切口にせず、私の要望に見合うプランを説明していた。豊胸にはいろいろな方法があるようだけど、確実なのはやはりシリコン製のインプラントを入れることらしい。いかにも豊胸したような形になることが不安だったが、今では本物のように見えるようなものあるのだそうだ。私は迷わず、一番良いシリコン製のインプラントを入れることにした。誰にも相談できないまま1人で迷うことは散々やったし、豊胸すると決めてから手術代の貯金を作るのに何年もかけた。今さら迷わないし、迷いたくない。
カウンセラーと大まかな方向を決めると、医者と詳細を詰めることになった。私は一番大きなサイズを希望したが、医者は自然に見えるものとして一般的なサイズを勧めた。だいたい2カップほど大きくなるらしい。両胸合わせて500グラム程度。そのくらいの異物を入れるだけで、私は変わる。それだけで変われるという晴れやかな望みと、たった500グラム程度で悩まされていたという、理不尽な不公平さを私はまざまざと見せつけられていた。あの時目の前を横切った女の大きさには程遠いが、私の体格では自然に見える中で一番大きなサイズだという。私は妥協した。
そして迎えた手術の当日、指定された時間に来ると、まず最終確認から始まった。医者と話し合って決めていた胸のデザインの確認、インプラントや麻酔の種類といった使用物品の確認、そして同意書へのサイン。引き返せないし、そんなつもりもなかったけど、改めて情報を並べられると不安になる。果たしてこれで良かったのか。一瞬よぎった思いにそれでもなんら惑わされることもなく、私は同意書にサインをして手術着に着替えた。手術室に入り、手術台に横たわると準備が始まる。まもなく麻酔の手はずが整い、私に少しずつ注入されている麻酔が効き始めたら手術が始まるのだという。私はドラマのように、自分の意志を強く言い聞かせることはしなかった。ただ、着実に私は変わっていく、そんな確信のような期待だけがあった――
麻酔の効果から目覚めると、固定具の上からでも自分の胸が大きくなっているのがわかった。問題なく手術は済んだのことで、ひととおりの注意事項の説明を受けて私は帰宅する。鈍痛もあって疲れていたし、麻酔が少し残っているようで身体が重かったが、ふわふわした高揚感が内側から押し上げていた。早く固定具が取れて、普段通りの生活になることが待ち遠しかった。
術後翌日の経過観察が終わり、抜糸をし、固定具が取れ、1ヶ月後の経過観察が終わる。初めてきた場所の見慣れない景色のようだった自分の身体にも慣れてきた。そうして、私は自分がどこかの誰かの視線を気にしなくなったことに気づく。粗野な視線にさらされ、不可視の存在に置きなおされる処理をもろともしない。「女性」であることも「ヒト」であることも否定するような視線に対して、私は「ヒト」だと主張できる自分がいた。そんな私がいるとは思えなかった。
仕事の忙しさを理由にして、術後の状態が落ち着くまで彼とも会わないようにしていたけれど、後ろめたさも今では感じなかった。私は良い方に変わっていっている。そんな私を受け入れられないなら、悲しいけどすべてを新しく始めるだけだ。
今までの自分ならきっとしていないような考えに自分自身で驚く。胸を大きくするだけでこんなに前向きに強くなれるのなら、もっと早くやれば良かった。
すっかり自分の身体を眺めるのが好きになっていた。手術の傷跡はまだはっきりとわかるけど、いつ見ても自然な仕上がりで違和感がない。手術前の成人した私を知っている人でさえ、豊胸手術をしたなんて気づきそうになかった。自分で注ぐことのできた満足感がこんなにも自分のことを好ましく思わせてくれるとは。いつしか自分の身体を眺めることが日課になっていて、今なら私は進んで自分を肯定できるように思い始めていた。
ただ、毎日見ているだけに気づくのも早かった。ある日見ていると、左右でどうも形が違う気がする。体をひねったり、腕を上げてみたりして確認した。気になるが、具体的にどこがおかしいのかわからない。きっと気のせいだ。もう少し待って、どうしても気になるなら経過観察の予約を入れよう。その日はそう思って不安を無理にでも打ち切った。
違和感はどんどん大きくなっていった。気づいた時には、私の左胸は大きくくぼみ、明らかにおかしな形になっていた。何が起こっているのだろう。手術ミス?シリコンの破損?自分では何もわからなくなって慌てて電話をかける。必死に筋道を立てようとしても散らばってしまう私の説明を、落ち着いているような、何事もないような口調で電話の向こうの相手は受け流す。そうして、医師と経過を見て、相談しましょうとだけ言った。丁寧な口調だけなぞった、あまりに事務的な物言いに一瞬怒りを覚えたが、一方で考えが逸れて落ち着いたのも事実だった。予約だけ、しかも私の休みと医者の出勤日程の都合でたいして早くもない中途半端な日取りの予約を入れただけで、電話は終わる。おざなりな、「また困ったことがありましたらお気軽にお電話ください」は何の助けにもならなかった。私の身体はどうなっているのだろう。私はどうなってしまうのだろう。不安だけが募っていく。左胸のへこみは変わらず堂々とそこにあり、私の心に嫌な予感を押し込んでくる。早く予約日が来ればいいのに、と何度も思った。以前よりも自分の胸が気になり、憂鬱で、仕事も手につかない。心配そうに様子を尋ねてくる同僚の対応さえおっくうだった。しきりに彼が会いたがっていたけど無視した。怒ったかもしれないが、そんなことも気にならない。何より今の私の状態で、こんなことを打ち明けられない。誰も見ているはずのない左胸を隠すように、私は残りの日々を過ごした。
当日、あれだけ待ち遠しかった医者の診察はあっさりと終わった。私の胸を一目見るなり、これはコウシュクですね、とそれだけ言った。拘縮。私の身体の防衛反応が異物のインプラントをコラーゲンか何かで覆ってしまうことで、硬くなり変形するのだという。解決するには再手術で新しいインプラントを入れるしかないが、同じことになるリスクはある、という説明だった。
私は何も言うことができなかった。私の身体が、私の嫌いな小さな胸を持つこの身体が、私の意志を否定している。私は悟る。私が嫌っていたのと同じように、私の身体は私のことを嫌っていたのだ。自分のことを受け入れようとしない私を。
どうされますか、と焦れたように医者が問いかける。即座に私は再手術を望んだ。私の身体は、そのままの身体でいることを望んでいるかもしれない。だけど私は、自分が「ヒト」であると自分自身で主張するよりどころが欲しかった。人柄や能力という目に見えないものを私の存在する世界に根差させるためのよりどころが。自分でもバカみたいだけど、自分で自分に向けている誰かの視線や、自分に注がれていた卑屈になってしまう汚泥のような価値観をひっくり返すには、私には人並みの胸の大きさが絶対に必要だった。
私の返答を聞いて「わかりました、やりましょう」と端的に応じて医者は出ていく。そしてすぐにあのカウンセラーが来て、私は再手術の日程を決めた。
再手術も滞りなく終わった。左胸からインプラントを取り出し、私の身体を洗浄する。そして新しいインプラントを挿入したらしい。拘縮したインプラントを見てやりたかったが、あいにくとその前に処分されてしまった。
結局、私の胸には大きな傷が残った。新しく入れたインプラントは成功裏に落ち着いていて、今のところ拘縮は見られない。でも、それはきっと、私がこの身体に、この身体の反抗に打ちのめされたからだ。お互いに嫌いあっていた私と私の身体。私が身体に手を加えようとした時、私の身体はたった500グラム程度の異物さえ許さずに抗い戦った。私の身体は異物を囲い込み、固めてしまった。身体の反抗を受けて、それでも私は再手術を選んだ。そして何事もなく今まで来ている。
私は勝ったのだろうか。いや、むしろ私の身体は、異物を排除して私に対抗する次の好機をうかがっているだけなのではないだろうか。それでも良いと思った。私は以前の私に戻りたくない。私は目指した自分になり、それが見ている世界に居続けるために身体を変えることを選んだ。折り合いをつけるのはその後だ。
私は人並みに変えた自分の胸から私を好きになっていく。
新しく始めていくことに、違和感はなかった。
拘縮 西丘サキ @sakyn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます