第13話 今夜、月の見える公園で

 眼鏡が壊れた。


 元からエキセントリックな奴だったが、ついに俺の存在を認めたくないあまり、俺を自身の妄想の産物と決めつけてきた。


 まさに今、お前は俺に触れていて、体温や筋肉の弾力を感じているだろうと反論したが、五感も妄想に毒されているに違いないと否定されてしまった。


 昨日の市役所の役人にも俺は見えていたし、少しだが会話もしたと言えば、あそこは市役所の中でも精神的にきつい職場なので、多分あの人も病んでいて、その弱った精神に眼鏡の強烈な妄想の産物である俺が食い込んでしまったのだろうと決めつけられた。


 昼に寄った牛丼屋の店員も長時間労働で疲れていたから俺を認識したのだと言われた。


 そして、慈愛に満ちた眼差しで『もう良いんだ。俺は大丈夫だから』と言って手を差し伸べて来られた。


 全然良くないし、お前は全く大丈夫じゃない。


 少年時代の眼鏡が俺やルサンチマン王国のことを夢想していた、ということは分かった。

 けれど、何故眼鏡の妄想が、ほぼ俺にとっての現実と一致しているのかということも、何故30を過ぎて、今さら俺が眼鏡の元に転送されてしまったのかも分からない。


 昨日、俺に協力する覚悟を決めていたように見えたのに、無理にでも理屈をごねて、現実から目を背けようとする心根が腹立たしかった。


 何より、俺の存在そのものをなきものにしたがっているような言いっぷりに傷ついた。


 悲しくて、悔しくて、気づいたら家を飛び出していた。


 闇雲に走り回りたどり着いた小さな公園で、俺はベンチに腰を下ろした。

 空を見上げたが、曇っていて星は見えず、輪郭がぼやけた月しか見えなかった。


 小豆色の衣だと、外は少し肌寒かった。


 人気のない公園は遠い昔に忘れ去られた廃墟みたいで、誰にも存在を認めてもらえない俺にはかえって居心地が良かった。


 発作的に家を飛び出してしまったけれど、俺には眼鏡の家しか帰る場所がない。このまま家出をするという選択肢はなかったが、しばらくはここで一人静かに心を休めたい。


 薄らぼんやりした月を見上げ、俺は放心した。


 どれくらいぼーっとしていたのかは記憶にない。


「ちょっと君……」と後ろから男の声で呼びかけられ、ハッとした。


 振り返ると、背広を着た俺と同年代くらいの知らない男が立っていた。

 自分から呼びかけたくせに、男は俺の顔を見て、大きく目を見開き、息をのんだ。


 ほぼ同時に俺も目を見開き、息をのんだ。


 男は灰色の背広を着ていたが、そのズボンの前開きが全開になっていて、見えてはいけないものが堂々と出ていた。


 男は衝撃から回復すると、即座に俺に頭を下げた。


「すんません。そのジャージ、北高のだったし、後ろから見たら女の子だと思って。間違えました」


 人違いか。


 いや、人違いとか関係なく、まずくないのか?


 それともこの世界では局部を見せつけたままナンパをしても罪にならないのだろうか。

 まだこの世界の常識が分からない。

 この男を捕らえて官憲に引き渡すべきなのか、『お気になさらず』と言って水に流すべきなのか、どっちが正しいんだ?


 自分の取るべき行動がわからずにいると、男はいそいそと大事なものをしまい、ズボンのファスナーを上げた。


「っていうか、今気づいたのですけど、もしかして白波? 俺、斎藤。中学の時同じクラスだった。サッカー部いたんだけど覚えてるかな…」


『中学』というのがこの世界の学校であるというのは、眼鏡の発言から察していた。

 ということは、こいつは眼鏡の同級生か。

 さすが、類は友を呼ぶ。

 変人の友人は変態。

 でも、『覚えている?』と尋ねてくるくらいだから、さほど親しくは無かったと考える方が自然か。


「えっと、もしかして違った…ですか? すっげえ似てるから。もしかして、双子…はないな、いたら同じ学校にいただろうし。兄弟? 親戚?」


 斎藤とやらはバツが悪そうにしながらも、無遠慮に個人情報を探ろうとしてくる。

 眼鏡の血縁者と答えた場合、万一嘘がバレると厄介なことになりそうな気がする。

 かと言って、無闇に異世界人と答えるのは危険だ。

 そもそも、俺自身が自分と眼鏡の関係性を理解できていないし、自分自身の存在すらもあやふやに感じ始めているくらいだ。

 他人と言い張るには似すぎている。


 幸い斎藤と眼鏡は、交流を経って久しいようだし、今後も付き合いが再開するとは思えなかったので、一番無難な道を選ぶことに決めた。


「ああ、斎藤か! あのサッカー部の。久しぶりだな、元気だったか」


「うーん、まあ体は」


 斎藤の口ぶりは重かった。局部を露出して女子にナンパをしようとして、誤って学生時代の同級生に声をかけてしまったのだ。

 色々あるのだろう。


「白波はさ、今何してるの? すっげえ髪伸びてるけど。まさかミュージシャン?」


 無理に明るく取り繕うように、斎藤は話題を変えた。


「何もしてない」


「……ニートか。うん、正直見た感じから何となく分かった。そうだよな、お前、中学の頃からそうなりそうな感じあったもん」


 眼鏡の中学時代はどうでもいいのだが、今の俺は見るからに無職なのか?


「社会に器用に適用できるには、どうすれば良いのだろうな……」


 もし仮に、この世界から帰れないなら、せめてまともな大人になりたい。社会の構成員の一人として、居場所が欲しい。


「分かんねえよ。俺さ、高校まではまだ上手くやれてたんだ。一軍にいたし。けど、大学で好きな子に振られてからかな? それとも東京のクラブで会った女にのめり込んでからかな。何かおかしくなっちゃってさ。女子高生見かけると、見せたくなっちゃって。見せない日が続くとイライラが堪っちゃって…。もうどうすりゃ良いんだか」


 斎藤は俺の隣に腰を下ろし、苦しげに己の過去や性的指向について語り始めた。

 変態と夜の公園で二人きりは嫌だったが、眼鏡のフリをしていたのもあり、邪険にできず、彼の話に耳を傾けるしかなかった。

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