第5話 帰り道で……
例えばあんたの目の前に一匹の可愛らしい猫がいたとする。その猫が普段から周囲を駆けずり回ったり、カーペットを捲ったりして遊んでいるような元気な猫だとしよう。けれど、時折、じっと何もない空中をじっと見つめていたり、寝ていたと思ったら急にピクリと耳をそばだてて何かに反応したらどう思うだろうか? まぁ、普通の感覚の持ち主であれば猫にも色々あるんだろうな。なんてそんな感想を抱くかもしれない。
例えばあんたの目の前に年端もいかない子供がいたとする。その子が普段からやんちゃでいつもニコニコ笑っていたり、かと思ったら急に泣き出したりするような子供だとしよう。けれど、何もない場所を指差してしきりに「あっち」と訴えかけてきたらどう思うだろうか? まぁ、普通の感覚の持ち主であればきっとこの子はあそこに行きたいんだろうな。なんてそんな感想を抱くかもしれない。
そう、“普通の感覚”の持ち主であればの話だが。
前置きついでにこんな話をしよう。俺の友人の話なのだが、その友人にはそれはもう誰もが羨む位の容姿を持ち、気立てもよく、誰とでもすぐに仲良くなれるそんな人懐っこい印象を抱く奥さんがいる。ただ、その奥さんというのがちょっとばかり変わった感覚の持ち主で、友人と一緒に車でドライブしている時にとあるトンネルに差し掛かった。すると助手席に乗っている奥さんが「あ、見ちゃった」と言うのだ。ハンドルを握っている友人が「何を?」と問い返すと「今、トンネルの入り口の上に白い服を着た女の人が立ってた」と言った。もちろんそんな場所に人間が立つことなど出来るわけはない。
話はこれだけではない。以前彼らが住んでいたアパートの一室で友人の奥さんが眠っていると同じ部屋で眠っている友人がうなされていた。嫌な気配を感じて友人のほうを見ると髪の長い二十代半ばといったぐらいの女性がじぃっと友人の枕元に立って眠る友人の顔を見つめていた。そして女性は彼女の視線に気づいたらしく、こちらに向き直るとにぃと笑って姿を消した。前からこの部屋の中に嫌な気配を感じていた彼女はとうとう出たか……と思い次の日にその部屋からの引越しを決意した。
そんな普通の人間には備わっていない感覚を持つ彼女曰く、猫が空中を見ていたリ子供が誰もいない場所を指差して「あっち」と言っている時は大抵、触れてはならない者達が側にいる時だということらしい。
さて、今回は趣向を変えて俺の友人が体験した話をしよう。俺の友人にも不可解な体験をしている奴が多く、友人の奥さんもその内の一人だ。だが今回話すのは、以前俺を恐怖のどん底に叩き落したことのある名古屋の友人が中学生の頃に体験した話を語ろうと思う。
その友人がそれを体験したのは中学二年生ぐらいの頃だった。
彼は当時バドミントン部に所属していて、大会も近かったこともあってか部活が終わる頃にはすっかり日も暮れていて、すっかり空も真っ暗になっていた。彼は部活の後や育ち盛りということもあってずいぶんとまぁお腹が空いていたらしく、とにかく家路を急いで自転車を漕いでいた。そのせいもあってか普段ならば使うことのない道を通ろうと選択したのも仕方がなかったのかもしれない。
彼が近道として使ったのは学校から大体十五分ほどで自宅につけるルートだった。けれども、彼は普段は学校へ行くときに三十分もの時間をかけて学校に向かっている。時間だけを見るなら近道を使いそうなものだがそれでも彼はこの道を使うことは決してなかった。なぜなら、その近道というのがうっそうと茂った雑草と無機質な墓石が立ち並ぶ、いかにも何か出てもおかしくはない墓地を通り抜けるルートだったからだ。なので、いつもは遠回りになるが安心して帰ること出来るルートを選んで帰っていた。
だが、今回は事情が事情ということもあってやむ終えずこの近道を使うことにした。
彼がごくりと生唾を飲みながらペダルにかけた足に力を込める。わずか五百メートルほどの距離ではあったが、すっかり暗くなり街灯もない場所を走り抜けるというのはなかなか大変なことで、夏場という事もあってか背中には暑さのせいだけではないだろう。にじみ出た汗が制服に張り付いて嫌な気分を駆り立てた。
時折、ガサガサと物音がする度にペダルにかけた足を踏み外しそうなりながらも、遠くに見える墓地の出口のあたりにポツリと浮かぶ街灯を道しるべにしながら漕ぎ続ける。
タタン、タタン、と自分と同じように家路に着こうとしている人たちを乗せた電車がわずかな明かりとともに過ぎていく。こんな光のない現実から切り離された異世界のような場所でも人の存在を感じたことにわずかながら安堵する。
しかし、それもわずかな安らぎだった。
墓地に入ってから中ほどに差し掛かった頃だろうか。
ぐん。
急に彼の漕ぐペダルが重さを増したのだ。まるで、荷台に誰かを乗せて走っているかのように。
恐る恐る彼は後ろを振り返る。けれども、自転車の荷台には当たり前だが人の姿なんてなかった。だが、彼は後ろを振り返ったことを後悔した。なぜなら人の姿の代わりに荷台を掴む“それ”を見つけることになったからだ。
最初“それ”が一体なんなのか理解するのに時間がかかった。しかし、タタン、タタン、と再び電車が照らし出すわずかな明かりに照らされ“それ”をはっきりと見たときようやく“それ”がなんなのか理解した。
“それ”は彼の漕ぐ荷台の縁をぎゅっと掴んでいた。けれども、本来ならばあるはずの“それ”に続くその先はない。
“それ”は大人ぐらいの大きさの……手首だった。
一瞬、ぐらりと世界が揺らいだ気がした。思わずその場にバランスを崩しそうになりながらなんとか立て直す。よろめきながらも自転車のペダルを力いっぱい漕いだ。
だが、振り返ると荷台に掴まっていたはずの手首がそろりと動き、地を這う蛇のようにこちらへと近づいてくる。
彼は無我夢中で漕いだ。必死に漕いだ。しかし、墓地を中ほど過ぎたはずなのに、暗闇に浮かぶ街灯と自分との距離は縮まらない。
しかし、彼の不幸はこれだけに留まらなかった。
急に自転車のペダルが軽くなった。重石を外したように、背中に羽が生えたように軽快に進む自転車。
……気のせいだった?
安心したのもつかの間。ミシリ、と嫌な音を聞いた。
「────!」
感じた痛みとともに今度は自分の右足を見てみる。すると──、
ペダルを漕ぐ彼の右足に荷台に掴まっていたはずの手首が絡みついていた。
うわぁぁぁぁぁぁぁ!!
思わぬ出来事にバランスを崩して倒れる自転車。手首は相変わらず右足を掴んで離さない。
「離せ! 離せよぉ!!」
自分の右足ごと絡みつく手首を地面に叩きつける。絡みついた手首から伝わる痛みとは別の鈍い痛みが彼を襲うが、もはやそんなことすら考えていられない。
そうして何度目か地面に打ち付けたところでようやく“それ”から開放された。
たたらを踏みながら駆け出そうとすると、地面に転がった手首がまるでひっくり返った蜘蛛のようにもがいていた。
彼は地面に倒れた自転車を起こすと、痛む右足を引きずりながらようやく墓地から抜け出した。
どうにか家に帰ると砂埃で汚れた制服を見た母親が「なにがあったの?」と怪訝そうな顔をしていたが、このときはさっきあったことを話す気にはなれなかった。出来れば夢であったと思いたかったからだ。
だが、彼の希望とは裏腹にやはりさっきあったことが紛れもない現実なんだと思い知らされることになる。
くっきりと残った何か強い力で握られたような痕を見るまでは。
翌日、昨日あったことを母親に話すと「災難だったね」と言われたらしい。そして、もう一つ知らなければよかったと思うことがあった。
彼の母親が言うにはずっと前、彼が生まれるより少し前の話らしいが、あの墓地の近くで事故があった。その事故というのが投身自殺で、やってきた電車に身を投げて自殺を図ったというよくある類の話だった。それなりにひどい惨状だったということもあり、新聞でも取り上げられたそうだ。しかし、彼が知らなければよかったと思ったことはそこじゃない。
投身自殺を図った人は、即死だったそうだ。それも体がバラバラに引き裂かれて。辺りには彼か彼女かはわからないが──だったものが散らばっていて、どうにか“ある体の一部分”を除いて見つかったそうだ。
そう、ある体の一部分というのは…………バラバラになった死体の右手首だったそうだ。
そして、今でもそれは見つかっていないらしい。
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