乱れ
骨になった信治を連れ帰った翌日から修平は出社した。歩美も千代子もまだ休んで欲しいと言ったが、修平は聞きもしなかった。
「ゆーいかーわさーん」
隣から自分を呼ぶ声に背中に汗が流れる。前はこうやって呼ばれるだけでも可愛いと思っていた自分が馬鹿だとさえ思う。
「あま、黒河さん。」
「お父さんのこと、大変でしたね。私で何かお手伝いできることがあれば言ってください。」
「黒河。独身の猿田や村田ならまだしも、唯川には出来た奥さんがいるんだから大丈夫だ。」
二條がやってきて黒河に声をかける。
「部長。でも唯川さんの奥様だってサイボーグじゃないんですから。私だって力になりたいんです!」
「お前なあ、」
二人の会話を聞きながら、背中ではだらだらと汗が流れ続ける。
「黒河さん、奥さんの連絡先教えてくださいよ。私で良かったら話し相手になるので!」
にこりと笑う黒河が次第に怖くなる。歩美の連絡先を知ってどうすると言うのか。まさか不倫相手ですなんて爆弾でも落とすんじゃないか。心臓がばくばくして言うことを聞かない。
「妻も仕事してるんだ。相談相手くらいきっと居るよ。」
顔の筋肉が強張っている気がする。けれど黒河が歩美といつでも連絡を取れる状況だけは避けたい。
「そういう所が男性は鈍いんですよ!誰にも話せないことはちょっと顔見知りだけど仲良くない程度くらいの相手の方がいいんですよ。」
「なんでもいいけど、朝からピーピーうるさいな。」
「一番声の大きい村田さんにだけは言われたくありません!」
向かいから村田が黒河にクレームが入った。よかった、これでこの話から退避できる。パソコンに向かい、休み中に溜まっていた仕事に手を付ける。この量なら今日は残業しないといけない。締め切りが近い仕事から取り掛かろうとすると黒河から書類が渡された。
「印鑑お願いしまーす。」
ざっと目を通しておこうと書類の束に視線を向ける。
“いつもの時間にいつもの場所でね。残業したら許さないから。”
黄色の付箋に書き込まれた文字を見て、悲鳴を上げそうになる。恐ろしい女に手を出してしまった。今更気付いてももう遅い。
「黒河チーフ。」
咄嗟に付箋を握りしめて隠したが、わざわざチーフなんて呼び方をする人間に心当たりがない。覗き込むように声の主を見ても誰だかわからない。中肉中背、黒い髪にメタルフレームの眼鏡。どこの課の人間かさえ見当もつかない。
「えっと、」
「総務の村上です。忌引き休暇の申請用紙を持ってきました。」
「あっ、葬儀にいらして、」
二條達の少し後ろにいたのが彼だと合致するのに時間がかかった。
「お伺いしました。挨拶も無しにすみません。」
「あ、いえ、恐れ入ります。」
葬儀が終わっても尚、この言葉を口にしなければいけないのか。面倒なことだと思いながら父を思い出す。歩美は家に居ることが長かった分、晩年の父とよく話していた。けれど自分はどうだ。仕事の振りをして、遅くに帰る日々。朝ご飯を別にしてから会話なんて殆ど交わさなかった。最後に話したのはいつだったろう。
「ここに署名捺印を。日付はこちらで記入しますので。」
「あ、はい」
印鑑を出そうとして引き出しに手を伸ばす。
「あとここに、」
握ってシワシワになった黄色の付箋が転げ落ちた。
「落とされましたよ。」
「っ!すみません、ありがとうございます、」
差し出せれた付箋をひったくるようにもらい、印鑑を押す。
「ほ、他に記入は?」
「いえ、こちらで処理します。この度はご愁傷様でした。ご家族も不安だと思いますので、」
書類を眺めていた村上の視線が修平をとらえる。
「残業もほでほどにして下さい、ね。」
忌引き休暇の手続きに不似合いな笑顔に修平はまたひきつった顔を見せるしかなかった。
一方、沈んだ気持ちが続くの千代子に寄り添うように歩美は仕事は休んだままでいた。介護よりも、他界した身内を心配する方がずっと気を遣うかもしれない。他愛のない当たり障りのない会話を昼間に千代子と交わし、夕方に千紗を迎えに行く。修平が遅いのはいつものこと。三人で食卓を囲みながら、私だって逃げ出したい。叶いもしない漠然とした願望が沸いた。
千紗を風呂に入れ、寝たのを確認してから、いつも使っているバッグに手を取る。物音を立てないようにしながら玄関を施錠すると早足で歩く。バイクに股がりセルを回した。
少しだけ、少しだけ頭を冷やすだけ。近所を一回りしたら帰ろう。修平が帰る前に。地面を蹴り走り出す。夜道を街灯とは別の色のハロゲンライトが照らした。
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