後悔
葬儀は滞りなく行われ、信治の生涯は幕をおろした。妻の千代子よりも涙で目を腫らしたのは歩美だった。
息を引き取る寸前の信治の言葉がずっと脳裏をよぎる。
「あんなやつと結婚してくれてありがとう。」
「苦労をかけてばかりでごめんね、」
朝はいつも通りの朝だった。昼ご飯に三人ですいとんを食べた。それなのに。肺癌と宣告されてからも、元来ヘビースモーカーだった信治は禁煙することはなく、噎せ返りながらも煙草を吸い続けた。あれがないと落ち着かないと言う信治に根負けして、よく煙草を買いに行ったのが懐かしい。思い出の一部になっているが、辞めさせていたらもっと長生きできたんじゃないだろうか。ジョーヌでのんびりコーヒーを飲んでいなかったら、もっと早く救急車が呼べたかもしれない。
さっきまで傷心していたはずなのに、歩美の気持ちは既に後悔へと変わっていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。お父さんごめんなさい。ごめんなさい。
あの時、もうダメだなんて思って。もう少し早く帰っていればよかったのに。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「あゆちゃん、もうそんなに泣かないで、大丈夫よ、」
「お母さん、わたし、」
「ほんとにありがとう、あゆちゃん。」
「お母さん、ごめんなさい、わたしがもう少し、」
「誰も悪くないのよ、あゆちゃんが謝ることじゃないの。」
泣きじゃくる歩美をそっと抱きしめ、髪を鋤く代わりに背中をトントンと優しく叩く千代子。寝つきの悪い子供をあやすように。悪い夢を見て泣き止まない子供を落ち着かせるように。
「大丈夫よ、あゆちゃんは悪くないの。もう泣かないで。お父さんもあの世で困っちゃうわ。」
「でも、私がもう少し早く帰ってれば、お父さんは、」
助かったかもしれない。
「いいえ。あゆちゃんは悪くない。」
言い切る千代子に救われるも、続く言葉に虚しさが募る。
「悪いとしたら、修平のせいよ、」
誰にも聞こえないくらい小さな声で囁いた言葉に歩美は絶望した。信治は修平の浮気を“知っている”ようだったが、千代子も“知っていた”。
「大丈夫よ、私はあゆちゃんの味方よ。」
「えっ、」
「あの人も若い時は好き勝手して、私もよく泣いたわ。」
「お父さんが?」
「また裏切ったの?って口喧嘩もしょっちゅうしてた。結婚して良かったのか後悔ばっかりだったの。」
「そんな事が?」
「夫婦だからあるわよ。」
遠回しに諦めろと言われている気がした歩美の体がこわばる。
「でもね、嫁はあなたよ。」
背中を優しく叩く手を止めることなく、千代子は続けた。
「修平のこと許してあげてとは言わない。私が言われて辛かったもの。お嫁さんに言えやしない。許さなくてもいい。許す必要ないのよ。」
ふっと顔を上げた歩美の顔を覗くように千代子は続ける。
「でも。あゆちゃんが千紗を連れて出ていくって言うならその時は教えて頂戴。私も力になるわ。」
その表情は静かに怒っているようで。そのベクトルがどこを向いているのか分からない歩美だった。
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