否定と肯定
信治が亡くなってからやってきたのは喪主は誰だの遺産だのという言葉の数々だった。長男の隆典は自分が喪主をやると言い張ったが、千代子と恵美子は猛反対だった。
「お父さんは修平にと遺してるのよ。家も修平が継ぐようにって。」
「母さん、何言ってるんだよ、親父がそんなこと、」
「言うに決まってるじゃない!老後の世話をしたくないからって同居を断った隆典と恵美子にだけは任せられない、修平に託すって。」
千代子の激昂ぶりはすさまじかった。穏やかな千代子が声を荒げたのを見たのはいつぶりだろうか。それこそ子供のころならしょっちゅう見ていたが、それ以上だったと思う。
「だけど喪主が次男なんて世間体がなあ、」
「じゃあ隆典が施主をすればいいでしょう?」
「俺が施主?金だけ払えってことかよ!」
「しゃーしぃ!にやがっとるとくらすぞ!」
千代子が博多弁で怒るを見て、一同は黙るしかない。
「おばあちゃん、それ、えーご?ちーもね、ようちえんでえーごやるんだー」
唯一黙らなかったのは千紗だけだった。
就職しても尚、この家を離れず会社勤めを続けた信治。五十で脱サラし、父の背中を追うように農家になった。会社員時代の同僚が葬儀に参列した。修平も見覚えがある面々が並ぶ。隆典や修平の同僚も姿を見せた。
「この度は、ご愁傷さまです。」
「恐れ入ります、」
この会話を繰り返すことに修平も歩美も疲れ切っていた。あと何度この会話を繰り返せばいいのかと。
これから先、父の世話をすることはない。解放されたと言えば故人に失礼極まりないが、こんな非日常で言葉を選ぶ力も、それを誰かに伝えることはない歩美だった。
少し遠くから添島の声がする。
「唯川の奥さん、久しぶりだなあ。結婚式以来かな、」
その隣には二條と猿田、村田の姿もあり、隠れるように黒河も参列していた。
「唯川さんの奥さんってどんな方なんですか?」
黒河は興味津々といった様子で周りをちらちらと盗み見る。
「キョロキョロするな、恥ずかしい。」
「村田、ここはそういう場じゃないからイチャつきたいなら帰れよ。」
「だから俺ら付き合ってねーって。」
いつもの社内のような雰囲気で向かってくる集団の中には見慣れない男も居た。
「で、唯川さんの奥さんは?」
「綺麗な人だよ。あいつには勿体ないくらいな感じの。」
「へえ、想像できない。」
「ああ、あれだよ。あの着物の。」
二條が歩美の方をちらりと見て言う。
「すっげえ綺麗な人だったのになあ。旦那が唯川じゃなかったら口説いてたよ、俺。」
「猿田!お前こういう場でそういうことを!」
二條が叱るような諭すような声で話すのを修平は聞きながら歩美を見つめた。そうだ、あいつは綺麗だった、お世辞でもなんでもなく。本当に綺麗だった。
「介護って疲れるんだなあ。育児もだろう?献身的に介護してたのに、こうなったら奥さんも、」
次に続く言葉をどぎまぎしながら待つ修平だったが、いよいよ痺れを切らした二條の雷が落ちた。
「猿田!独身のお前には分からんだろう!?少し黙ってろ!」
安堵というべきなのか、よく分からない感情が渦を巻く。下を向いて、自分の愚かさを呪った。歩美が介護と育児に明け暮れ、仕事もする中で俺は何をしていたのか。
「唯川さん。」
その時、視界に現れたのが黒河だった。葬儀の場に似つかわしくない笑顔を浮かべて。
「あの日、本当だったんだね。」
「ああ、だからもう、」
「でも。いいじゃん。お父さんを心配することはないでしょ?その時間を私にくれても。」
背筋が凍る。寒くて動けない。けれど、凍ったように固まった背中には、じわりじわりと汗が滲む。
「いや、だから、」
「私、ハイって言ってないから。じゃ、また会社でね。」
歩美はこちらを見ているだろうか。振り向けずに、近くの参列者と挨拶を続ける。じわじわと汗をかきながら。
黒河と話す修平を歩美は遠くから見ていた。あの子だ、きっと。何となく、女の勘が働く。信治が亡くなって、参列者に挨拶をしながら涙を流していたのに、二人が話す姿を見たら自然と涙は引っ込んだ。
「歩美さん。」
「マスター?どうして?」
「看板で唯川って見たからそうかと思って。」
「そっか。ありがとう、来てくれて。」
来てくれたお礼は今日の葬儀のことなのか、病院まで千紗を連れてきてくれたことも含めるのか、よくわからない歩美だった。
「焼香だけしたら帰るから。」
「ううん。ありがとう、来てくれただけでもお父さんも喜ぶから。」
「店には来たことないけどよく豆買ってたもんね。」
「美味しいって言って飲んでたよ。」
「それは嬉しいな。」
「出棺まで居てくれるると心強いけど、お店あるもんね、」
「今日は定休日だよ。」
「あ、そっか、やだ。今日何曜日だったの忘れちゃってた。」
「仕方ないよ。ねえ、あの人がご主人でしょ?さっきまで話してた茶髪の子が相手?」
「だと思うよ。」
「うわ、ご主人センスないね。」
「こんな時に茶化さないでよ、」
「茶化してなんかない。俺はいつでも歩美さんには本音しか言ってない。」
ずっと伏し目がちに話していた歩美の視線が少しずつ上向いて、峯田の瞳とぶつかる。それは何かの予兆にも見えた。
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