眠り
二度と目を覚ますことのない信治。信治の最期に間に合わなかった修平。最期を悟っても、何度も父に呼び掛け続けた歩美。考えることをやめた千代子。千代子は歩美のことを実の娘の恵美子と間違えていて、孫の千紗については覚えてすら居ない。
「この子、だあれ?」と聞いてきた千代子に修平は驚いた。右手に持っていた鞄を落とすほど。さっきの歩美の言葉を思い出しながら、否定しないように事実だけを告げる。
「千紗だよ。」
「あー、千紗ちゃんね。」
安心すべきなのか、不安を感じて歩美に相談すべきなのか、修平にはどうするべきなのかわかりはしない。
信治の体から熱が消え、冷たくなっても千代子は修平と歩美に話し続けた。
「久しぶりだわ。お父さんがこんなにゆっくり寝てるのなんて。」
「そうですね、最近は夜中も頻繁に起きてらしたし。」
「恵美子?どうしたの、あなた。一緒に住んでないのに何で知ってるのよ、」
千代子には歩美は存在しない。
「最近、親父の体調が悪くてしょっちゅう帰ってきてただろ。泊まったりとか。なあ?」
「あっ、うん、そうね。」
それらしい言い方に歩美は少しゾッとした。
貴方はそうやって息を履くように嘘をついてたのね。私にも、ほとんど毎日のように。この人を信用して暮らすのはもうできないかもしれない。そう思いながらも生前から信治が事前相談していた葬祭業社に連絡し、準備を勧めるのは歩美だった。
家に着くと千代子は信治の死を受け入れた。死化粧をしてもらう信治を見て涙し、生きていた頃より顔色がいいと微笑む。
「ねえ、あゆちゃん。」
「はい、」
「私、もしかしてあなたに酷いことを言ってないかしら。病院に居た時、あゆちゃんを傷つけるようなこと言ってない?」
千代子が歩美を認識したことで、修平も胸を撫で下ろした。
「無かったですよ、ご心配なさらないで、お義母さん。」
「そう、なら良かったわ。あんまり、記憶がないの。だから、」
「お義母さん、大丈夫ですよ。心配しなくても。」
「それならいいの、それなら。ちーちゃん、おじいちゃんとお話ししよう?」
「やだ、」
初めて千代子に千紗が抵抗した瞬間だった。
「ちーちゃん、おじいちゃん、少し眠いのよ。おめめ瞑ってるけど聞こえるから、」
「やだ!さっき、おじいちゃんおこしたけど、おきなかったもん!おばあちゃんも、おじいちゃんも、ちーがキライなんだ!」
わあっと泣きながら、自分の部屋へと走った千紗の手を掴もうとした修平だったが、握ったのは空気だった。歩美は修平に兄弟と親戚に連絡するように伝えながら千紗を追いかける。千紗の部屋の戸に手をかけた。
「千紗、入るよ。」
「ママ?」
「びっくりしたね、」
「うん、おばあちゃんがちーにだあれって言った。」
「千紗。大事な話をするね。」
「うん、」
「おじいちゃんは病気だったでしょう?」
「うん、」
「おじいちゃんは今寝てるの。」
「うん、」
「でもね、もう起きないの。」
「どうして?」
「病気がない場所に行くからだよ。」
「もうどこもいたくなったり、くるしくなったりしない?」
「しないよ。でも、もう一緒には居れないの。お別れなの。」
「やだ!」
「大丈夫よ、またどこかで会えるから。だからね、千紗。最後に今日幼稚園でしたことと、おじいちゃんにおやすみなさいできる?」
「うん、できるよ。ねんしょうさんだから。」
「あと、おばあちゃんにもヤダって言ってごめんなさいしようね。おばあちゃんもね、おじいちゃんと一緒に居れなくなるのが分かって、少し混乱してたのよ。」
「うん、ちー、おっきくなったからできるよ。」
四才なりの死を千紗は受け入れた。起き上がることのない信治に千紗は、いつものように今日の幼稚園の話をし続けた。両目に涙をいっぱいにして。時々、鼻水を啜りながら。最後に、おじいちゃん、おやすみ、またね、と言って信治の手を擦る。
「ちーちゃん、」
「おばあちゃん!ごめんなさい!やだって言ってごめんなさい!」
「まあまあ、こんなに泣いて。」
ハンカチで千紗の涙を拭う千代子の目にも涙がある。
「ちーね、かなしかったの。だあれって、おばあちゃんが言ったから、さみしかったの、」
「そう、おばあちゃんもごめんね。おじいちゃんのことで頭がいっぱいで。ごめんね、ちーちゃん。」
ふんわり千紗を抱きしめ、髪を鋤く。
良かった、戻ってきて。家族の死に直面し、一時的な認知症のような症状が出るのは少なくない。周りがどう接するかでその後が変わる。取り乱して手をつけられなくなったり、葬儀に参加できなくなるケースも少なくない。仮に、千代子が歩美を恵美子と思い続けていたなら、歩美は死んだも同然だった。
「あゆちゃん、」
ふわりと線香の匂いが強くなり、千代子に抱きしめられる。
「ありがとうね、あゆちゃん。ごめんなさいね。あなたが居て良かったわ。」
「お母さん、」
「嘘じゃないのよ、あゆちゃんが居なかったら私、どうかなってた。あゆちゃんのこと、本当の娘だと思ってる。」
髪を鋤きながら、千代子は続けた。
「あゆちゃん、うちへ嫁いでくれてありがとう。」
髪を鋤く手を止め歩美の顔を覗き込み、千代子はまだ話し続ける。
「あゆちゃんは私の自慢の娘よ。」
歩美を肯定する千代子の言葉で、堰をきって流れ落ちる涙を千代子が拭う。
「あら、もう。親子で泣き虫さんだこと。」
千代子の目にも涙が浮かんでいた。
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