食べることは生きること
冬になった。積もるほどではないけれど、雪がちらつき、体の芯から冷えた。信治は歩美が作ったポタージュのカップを持ちながら、新聞を読んでいた。
「今朝は寒いなあ。景気も悪いし。」
「温かいのはスープだけね。」
テレビで天気予報を見ていた千代子も同意する。ああ、と信治は短く答え、また新聞に目を落とした。
「おかわりいりますか?」
「うん、もう一杯くれるかな。」
二人の会話を聞いていた歩美が襖から顔を出す。
「もう準備してありますよ。食べることは生きることですから。」
「まあ。ありがとう。」
ふふふ、と千代子が嬉しそうに歩美から受け取り、信治の目の前に置いた。
「私はそろそろ出かけます。」
「あとはやっておくわ。」
「いえ、水につけておくだけで構いません。今日は遅番なので出勤までにできますし。」
じゃあ行ってきます、と千紗を急かしながら幼稚園へと送っていく。その後ろ姿を見ながら、本当にいい人が嫁いでくれた、と二人は朝食を頬張った。
「私達は幸せですね。あんなにいいお嫁さんなかなか居ないって高橋さんに言われちゃったわ。」
「本当に幸せなことだね。俺の風呂まで手伝ってくれるんだから。」
「どうしても、私だけだと心配なのよ。」
「賢明な判断だよ。」
「でも、あゆちゃんは幸せなんでしょうか、」
「ん?」
「こんな年寄りと毎日顔を会わせて、ご飯の支度をして。ちーちゃんの面倒もあって、修平はあんな調子で子供の面倒を見るわけじゃなし。」
「そうだなぁ。」
「二人目はいつにする?なんて呑気なこと言ってるけど、一番大変なのはあゆちゃんなのよ。」
「それはそうだ。母親って悲しい生き物だね。」
「母親だからこそ楽しいこともあるのよ。」
「父親は大抵蚊帳の外だからなあ。」
「それに。修平何かおかしいのよ。貴方も気付いてるでしょう?」
「女か。」
信治は深いため息を吐いて、煙草に火をつける。
「俺達が気付くんだ、あの子はとっくに気付いているよ。」
「ちーちゃんが居るから、見なかったことにするかしら。」
「どうだろう。俺達を置いて、突然居なくなってしまうかもしれないよ。」
「そんな。せっかく賑やかな家になったのに。」
「それはあの子の人生だからね。」
信治がそう言い終わった頃、歩美が帰ってきた。
「どうしたの、そのお野菜。」
「たまたま、宮崎さんちの奥さまにお会いして玉ねぎを頂いて。そしたら高橋さんの奥さまにお会いして、じゃがいもと白菜とカボチャがあるからって。その隣の浜野さんの奥さんも薩摩芋とブロッコリー要らない?って」
両手いっぱいのスーパーの袋を持ち、それぞれの袋はもう破裂寸前。
「今日は色んな野菜が食べれるから嬉しいですね。」
歩美だって内心無理はしていた。何せ、車が目立つのだ。色んな人に目撃され、野菜を勧められる。今度お茶菓子でも持っていかないといけない。いや、この量なら、その辺のお茶菓子程度では失礼かもしれない。
「お父さん、お母さん。昼御飯と晩御飯に食べたいものはありますか?」
「すいとん。」
「すいとん?」
「昔、貧乏学生の時に食べててな。懐かしい味でね。」
「そんな得体の知れないもの、あゆちゃんに作らせないで、」
「わかりました。お昼はすいとんにしましょう。」
「ごめんなさいね。」
「時々いつもと違うものを食べたり、懐かしい味に出会うと脳が若返るそうですよ。食べることは生きることですし、それでお父さんの体が良くなるなら。」
「ありがとう。あのね、今日じゃなくてもいいんだけど、カボチャの煮物食べたいわ。あゆちゃんの煮物好きなのよ。」
「うふふ。ありがとうございます。」
昼御飯のすいとんを作りながら、宮崎さんの玉ねぎ、高橋さんちのカボチャと白菜とじゃがいも、浜野さんの薩摩芋とブロッコリーのお礼を考えていた。
お昼を食べたら、お芋のパンかパイでも焼こう。確か冷凍庫にパイ生地があったはず。今から解凍して、焼いて。ジョーヌのコーヒーギフトがあればそれを添えたらいいかもしれない。
次々浮かんでくるアイディアにわくわくする歩美。けれども、すいとんのレシピはいまいち掴めず携帯で検索してみたが、少し薄い味付けになってしまった。
「お待たせしました。」
襖から顔を出す。歩美が休みの時は、信治と千代子の部屋で三人で昼食を食べるのが決まりだった。
「お口に合うといいんですが。」
携帯で得たレシピで作ったのだ。自信はない。そんな歩美に構うことなく、二人は律儀に頂きますと手を合わせてお椀に箸を伸ばす。最初の一口を食べた信治の口許が震える。
「お父さん…?お父さん!」
「お父さん、息するのよ!息して!お父さん!」
「いや、詰まったりはしてないんだ。」
「それなら、どうして…?」
「貧乏学生の時のすいとんが本当にこんな味で…つい、懐かしくなってしまった。すまんねぇ、」
「良かった。安心しました。」
「お父さん!?もう紛らわしいことしないで!びっくりしたわ。」
「また、すいとん作りますね。」
「ありがとう。歩美さん」
歩美さん、信治が歩美を名前で呼ぶのは珍しいことで、感謝の言葉を言うのも少ないことだった。お風呂に入るのを手伝うと言ったとき、信治は嫌だと一度は断った。当たり前だと思う。けれど、千代子の年齢や体力面を考えると、もしも転んだら二人とも骨折なり怪我をしてしまう。そう伝えるとしぶしぶ手伝うことを許してくれたが、ずっと続くのは謝罪の言葉だった。
「お嫁さんなのに、ごめんね。」「ごめんねぇ、こんなことさせて。」
繰り返し聞く“ごめんね”がいつも歩美を苦しめた。だからこそ、歩美は心の底から嬉しかった。修平が浮気をしていても、ここの人間なんだと認められた気がして。
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