昔から春が嫌いだった。気の知れた友人とクラスが分かれてしまうし、慣れた生活習慣から新しいものへと変わらないといけない。ナカミは同じままなのに新しいハリボテを作って、周りに気に入られなければいけない。なんて面倒な季節なんだろう。

 中学から高校、高校から大学へ進むうち、友人は確実に増えた。同性も異性も。でも気の許せる友人はほんの僅か、というよりも東山くらいしか居ない。

 高校に進学して、初めて彼女が出来た。彼女が休み時間に女子トイレでアイメイクを直しながら男子達の愚痴を言っているのを知っていたのにノーが言えなかった。母も姉も、父の不満を父の留守中によく口にしていたし、女はそういう生き物なのだと割り切ることにした。彼女が勝手に決めた記念日から半年経っても、俺は彼女が好きになれなかった。そのうち、他に好きな人が出来たと別れを切り出された。内心ほっとした。廊下で新しい彼氏と認定された男と彼女が笑い合っているよこを通りかかっても、驚くほど何とも思わなかった。

 高校を卒業するまでに何人かと付き合った。年上だったり、同い年だったり、年下だったりまちまち。

「お前モテるよな。」

 東山にそう言われても実感はなかった。ここでキスでもしたら喜ぶだろうと思ってキス程度はした。でも誰ともそれ以上にはならない。意気地がなかった。本気で好きな相手ができても、だ。

 大学一年の夏から同じゼミの子と付き合うことになった。付き合って一年が経っても彼女を抱けなかった。手を繋いで、抱き締めて、キスをして、腰に手を回して。それから先が、分からない。童貞です、そう口にしたくなかったのもある。嫌われたくない。あわよくば彼女と結婚したい。そう思ってたのに。

 バイトの帰りに他の男とホテルに入る彼女を見た。お酒でも飲んだのか少し頬が赤く、他の男と腕を組んで楽しそうに話す彼女。その笑顔は俺だけに向いてると思っていたのに。

 それからは彼女と少しずつ距離をおいた。別れ話くらいは顔を見て、あの日のことも聞きたい。

「悪いけど、バイトで遅くなりそうだから部屋で待ってて。」

 そんな連絡がきて、久しぶりに合鍵で入った彼女の部屋は他の男のにおいがした。大量な使い捨ての髭剃りの買い置きが廊下に袋のまま放置されていたり、服や下着まであった。前はなかったものばかりが目に映る。お揃いのマグカップが並んでテーブルに置いたままで生活感があった。俺は一ヶ月はこの部屋に来ていない筈なのに。マグカップは今朝もコーヒーが注がれたような茶渋がある。部屋に入った痕跡をひとつひとつ消しながら玄関に戻る。鍵を締めて、部屋を後にした。

「ごめん。鍵忘れたから近くのコンビニにいる。まだかかりそうなら帰るよ。」と、精一杯の強がりでメッセージを送った。

 数十分後、息を切らして走って帰ってきた彼女とさっき戻った道をまた行く。

「ごめん、ちょっと散らかってるかも。外で待ってて。」

「別に散らかっててもいいよ。」

 だってさっき見たし。今さら気を遣わなくても。

「見られたら恥ずかしいから!待ってて。」

 浮気を目撃する前だったら、本当に鍵を忘れてたなら、こんな口振りや仕草も可愛いと思っていただろう。

「悪いけど。単刀直入に言う。最近お互い忙しいし、別れようよ。」

 自分で言っておきながら、全然単刀直入ではない。おかしな話だ。

「えっ、待ってよ、やだ。別れたくない。」

 俺は別れたいよ、浮気してるの知ってるし。

「でもさ。ほら、最近会えない時間多かったしさ、すれ違いがちだったじゃん?だから、その、」

「他に好きな人でもできた?」

違う。

「私に魅力がないから?」

違う。

「同じゼミの子?」

違う。

「バイト先の子なの?」

違う違う違う違う。

 まくし立てて話す彼女に口が思うように動かない。

「ひとの奥さんを、好きに、なっちゃって、」

 絞り出した嘘に彼女は納得した。

「じゃあ、鍵返してよ。」

「ポストに入れておく」

「明日、渡しに来て。」

「用事ある。」

「じゃあその次は?」

「無理。」

「じゃあその次。」

「忙しい。」

 まだ付き合って間もない頃のように、その次は、と聞き続ける彼女の瞳は揺れていて、愛情がなくなった俺には怒ってるのかさえも分からなかった。

「何日かしたら考え直してくれるでしょ?」

 絞り出した声に首を横に振るしかできない。そもそも、もう顔も見たくない。

「早めには返すけど。予定合いそうにないから、」

「一ヶ月後でいい。」

「俺の話聞いてる?」

「一ヶ月後ならまだ空いてるでしょ?ちょうど付き合って二年だし、その日にしよう。決定ね。十時ね、夜の。」

 そこまで言い切られてしまうと男とは弱い生き物でうんとしか言えない。


 その一ヶ月後、これから行くねと彼女に連絡しても返事はなかった。律儀にインターホンを鳴らして玄関が開くのを待つ。

 あの日、背を向けたドアが開いたが出てきたのは知らない女性だった。

「怜央くん、だっけ?あの子から聞いてるよ。」

 その女性は彼女の姉だった。

「別れたくないから引き留めるように説得してくれって頼まれたの。まあ、上がって。」

「鍵返しに来ただけなんで帰ります。」

「いいから、」

 ぐっ、と腕を捕まれ部屋の中に押し込まれる。アルコールのつんとした匂いがした。

「人妻を好きになったんだって?」

「まあそんなところですね、」

「本当に別れるの?」

「はい。」

「怜央くんの顔、綺麗だよね。好きだなあ、アタシ。」

 慣れた手つきに虫酸が走った。でも逃れられない。

「一回だけでいいからシよう?」

「いや本当帰るんで、」

「シてくれたら、あの子言いくるめてあげるよ。」

 こういうのは男女が逆の立場だと思っていた。心臓はバクバクしているし、冷や汗も出る。でもそれで彼女を言いくるめてくれるならいいかもしれない。開いた口が塞がらず、返事もしていないのに俺は彼女の姉に童貞を奪われた。


 あの日から、女性が怖くなった。大学内でも、会社員になっても。冷や汗はでるし、悪寒がする。それが嫌になって会社も辞めた。でも生きていくには働かねば。そんな時に声をかけてくれたのが東山だった。

「暇なら昼間、喫茶店やってくんない?店番でいいから。」

 初めは本当に店番だった。けれど知らぬ間に「マスター」なんて呼ばれている。恐々と相手にしていた女性客も今ではそう怖くはない。そんな時に出会ったのが歩美さんだった。屈託のない話し方、共通の趣味、弾む話。仲の良い人程度だった筈なのに、ご主人の浮気を暴露されて俺ならそんな顔させないと口走っていた。カウンターがなければ多分抱き締めていた。

 家族の話をする彼女はいつも嬉しそうだった。幸せそうで、話していて安心した。けれど。

 感情を抑え込んで、見て見ぬ振りをしている横顔は見ていられない。死期でも悟ったような、歪んだ笑顔を張り付けて。

 ねえ、貴方を殺したのは誰なの?

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