第92話 二人の夫婦のカタチ
「来週から南西部に送られるようです」
「なん、せい…?」
「どうも密かに隣国の軍が国境線を越えたようで。クーデターが起きた今が絶好の機会だと思われたんでしょう」
アナルドの低い落ち着いた声は、心地いいと思う。
思うけれど、いつも大事な話を、なぜ今、頭の回らないときにするのか。
夫婦の寝台の上で、裸のまま重なっている今に!
怒りを込めて睨みつければ、ふっと彼は口角を持ち上げた。
「ああ、すみません。貴女を悦ばせることをおろそかにしたつもりはありませんよ」
「違…は、っああん!」
断じて違うと文句を言う声は嬌声に変わる。
どこまでいっても自分勝手な夫だ。妻の話を聞く気もない。一方的で、答えを欲しない。彼の愛し方そのものだ。与えるだけ与えて、勝手に納得して満足している。
怒りは快楽に流されて思考は流転する。
途切れた言葉は別の意味で彼に届いたらしい。彼はしっかりと妻を抱きしめた。
激しく腰を動かされると、バイレッタの思考は一瞬にして飛んだ。
そのまま絶頂の中で悶える。
それを幸せそうに見つめる夫に殺意がわく。
「愛してます、バイレッタ」
耳元で熱く囁かれても、決して懐柔されるものかと決める。
それでもかまわずアナルドは二度と放すまいとするかのようにさらに強くバイレッタの体を抱きしめた。
「また、手紙を送ってください。貴女が書いて届けてくれた言葉ならなんでも嬉しいですから」
「大嫌いっ…て、送り、ますっ」
「ふふっ、ありがとうございます」
殴ってやろうかなと思いながら、バイレッタは夫の横顔を見つめる。密着しながらも彼も同じように自分を見つめていた。
蕩ける思考をつなぎとめるが大変だ。腰を動かされる度に甘い痺れが全身を犯して、感情を狂わせる。
しばらく会えないことが淋しいと思うなんて、きっと気のせいだ。この熱と重みが恋しくなるなんて、絶対に勘違いだ。
けれど、バイレッタの中の夢見る少女が泣いている。相手にすがりつきたくなるだなんて、随分と弱くなったものだ。
恋は人を愚かにすると言うけれど、弱くするとは思わなかった。
それでも淋しさを感じさせない夫の姿に腹が立って絶対に本人に明かしてなるものかと意地を張る。
だが夫はにこりと愉しそうに笑う。
「だから、今夜は朝まで付き合ってくださいね」
それが免罪符になるとは思わないで!
文句は口づけに溶けて、結局届かなかった。
素直じゃなくても。意地を張って文句を言っても。大嫌いだと告げたところで。
アナルドは、全部抱き締めて愛していると伝えてくれるから。
夫に甘えている自分を許してくれるから。
何だかんだと、幸せだと思ってしまった。
バイレッタの中の少女も淋しいと泣きながら、結末に満足していることを知っている。
自分たちはいつまでも平行線だけれど、きっとこれが二人の夫婦のカタチなのだ。
悪くないだなんて、もうとっくに毒されているなと思いつつ、バイレッタは夫が与える口づけを受け入れた。
幸福の味に酔いしれながら。
#####
「もう、お義姉様、聞いてました?」
隣でミレイナが怒っている声で我に返った。
瞬くと、頬を膨らませている義妹がいた。
可愛い姿に思わず癒される。
「このあとは、どうしますかって聞いているんですけど」
「あ、そうね。私は用事があるから、このあとは、二人で楽しんできて」
「ええ? 一緒に行きましょうよ。せっかくお義姉様とお出掛けなのに」
「ベナードがいるのだから、我儘は失礼よ?」
「ベナード様とレタお義姉様と一緒がいいんです!」
「レタ義姉様の邪魔はしないんじゃなかった?」
なんと答えようかと悩んでいると、ベナードが助け舟を出してくれた。ミレイナを宥めるように働きかけてくれている。
「だって久しぶりに三人で過ごせると楽しみにしていたのに……」
「また、いつでも出掛けましょう。ベナードの都合がつけば、ね」
「僕はいつでも大丈夫ですよ。君が見たがっていた観劇は来月もやっているから、それまでに三人で行けばいいさ」
お邪魔虫は退散しようと気を利かせているのに、文句を言われるとは。なんとも可愛い義妹に絆されそうになるが、用事があるのも本当だ。
「そうね。また日程を伝えるわ。今日はありがとう。ミレイナをきちんと送ってね」
「勿論です、信用のないことはしませんよ」
ベナードを信じていないわけではないが、万が一ということもある。念のため釘を刺しておいたが、真っ赤な顔で反論されては邪推だったかと反省した。
初々しいバカップルをいじっても、ダメージを受けるのは自分だと知る。
そのままカフェを出て、通りを歩く。目指す場所は既に調べてあるので、迷うこともない。
煉瓦造りの建物が目に入って、これかとゴクリと唾を飲む。
賭けはなくなったけれど、続けていても自分の負けだったのかと思うと少し腹が立つ。それでも調べたいと思ってしまったのだから、やっぱり恋は人を弱くすると思う。いや、絆されたのかもしれない。
情が移ったというほうが正しいか。
悶々としながら、彼が出立する前に伝えたいとこうしてやってきたのだから、やっぱりアナルドが好きだなと実感した。
彼の喜ぶ顔を見たいだなんて、乙女思考になんだかむずむずとする。
それでも悪い気がしないのだから、不思議だ。
バイレッタは意を決して、木の扉を開いた。
入り口に掲げられた『イゼン産護院』の看板をくぐり抜けて、ゆったりと中へ入るのだった。
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