第82話 同級生への熱い想い
自覚のない淡い恋心を抱いていた夫だが、初めて会ったアナルドは使用人たちの話のどれにも当てはまらなかった。初夜だと言って勝手に体を繋げてしまう。
温かな気持ちなど、一瞬にして弾けとんだ。
混乱して少しも抵抗できなかったことが悔やまれる。そんな夜だった。
だが、粉々になった恋心は、一緒にいることで少しずつ元に戻ったのだろう。
口数は少ないし、何を考えているのかもわからないし、自分をすぐに怒らせるけれど。
気遣われているのがわかった。
不器用な配慮を感じることもある。
時折、熱の籠った瞳で自分を眺めている彼を知っている。
無料の娼婦呼ばわりで、男を引き寄せるのはバイレッタのせいだと告げられて。
そのたびに、やはり夫からは好かれていないのかと落ち込んで。
あのエメラルド・グリーンに映る自分の姿を気にして一喜一憂している感情が馬鹿みたいで。
賭けの勝敗で離婚してもいいだなんて馬鹿げたことを言いだしたことも、噂通りの軽い女だと思われるのも嫌で、幼い頃からの夢も捨てきれず。
離婚はしたいけれど、したくない。揺れ動く複雑な心境の、その隅っこ。きっと心の片隅には彼がいる。
すっかり住み着いてしまったのだと気が付いた。
だから、自分が彼の足枷になるだんて絶対にいやだ。
自由を求める自分が、相手を縛る鎖だなんて、悪夢のようだ。
「止めてくださいって言ってるでしょう?!」
アナルドの唇を両手で塞ぎながら告げれば、彼は面白そうにふっと目を細めた。
「こんなことしてる場合ではありません、どうして来たんです?」
「ですから、妻を助けるのは夫の努めでしょう?」
「これが罠だって知っていらっしゃいますよね?! クーデターの最高幹部になりたいのですかっ」
「そんなつもりはありませんし、ここに俺がいることが彼らの計画が破綻している証拠ですよ」
「どういう意味です?」
「彼らが来て欲しかったのは、ライデウォール伯爵家の別館でしょう? あちらではすべての舞台が整っていましたからね。それに反してここは随分と静かだ。ここには来てほしくなかったという意味です」
アナルドの言に、扉付近にいる男たちを見やれば彼らは確かに蒼白になっていた。
確かに計画通りならこんな驚愕めいた表情にはならない。どこか怯えてもいるようだ。
「ばれているようだが、一度は顔を出したのだろう?」
「ええ、熱烈な歓迎を受けましたよ。あっという間にクーデターの主犯にされそうだったので返り討ちにさせていただきましたが。おかげで証拠がぞろぞろと出てきて助かりました。仕事が早く終わったので、このまま家に帰れそうですよ」
「どうして、この場所がわかった?」
「見張りは一人ではないということでしょうか。中尉の方がよく知っているでしょうが」
「ヴォルク?」
「だから言ったんだ。サイトール中尉が簡単に俺に譲るはずがないって。どうせ見張りを何人もつけていたのだろう。すべて中佐の計画のうちか」
「愛しい妻を危険にさらすような計画を立てたと思われるとは心外ですね。これはドレスラン大将閣下の意向ですよ」
余計な修飾語が聞こえた気がしたが、モヴリスの名前に納得する。
バイレッタを囮にして、クーデター騒動を一気に片づけるつもりだったのか。そこまではいかなくても足掛かりくらいには考えていそうだ。
慰謝料の請求先が決まった瞬間でもある。
「まあ、やり方は別にしてもこうして妻の命を護ろうとしてくれたことには感謝しますが」
アナルドの一言に、思わず彼に視線を戻す。
先ほどからもエミリオはバイレッタを助けると話していた。つまり、比喩でもなんでもなく事実だということか。
「彼らは単純に敵ということではないということですか」
「俺にとっては敵ですよ。貴女を奪っていくのですから」
しれっと答えて唇を寄せてくる男を軽く睨みつければ、アナルドは仕方なしに短息した。
「クーデターの計画は、俺を最高幹部に仕立てることでしょう。そのために上司に押し付けられた問題のある憎い妻をクーデターの爆発騒ぎに乗じて殺したという容疑をかけるつもりだったようですね。貴女はそのために殺されなければならなかった。あちらの館にあった書類はそれに関連したものばかりだ。けれど人質にして脅すという方向に変えたのは君たちでしょう? ご丁寧に書類を偽造して彼女の身分まで守って」
軍の最高幹部の妻だなんて肩書になれば、騒がれるうえに軍法会議にかけられるかもしれない。なんにせよ、自由はなくなる。軍の監視下に置かれることは間違いないだろう。
確かに、その計画でいけばアナルドとは縁が切れているほうがいい。
だが、エミリオもヴォルクも悔しそうな顔をするだけで、一言も口をきかない。
「ええと、それは、元学院生のよしみで、ですか?」
同じ学院を出た同級生という接点くらいしかないが、なぜ彼らがそこまで自分を守ってくれるのかわからない。そんなに同級生に熱い想いを抱いているとは思わなかったが、同じ学び舎という感情はやはり特別なのかもしれない。
バイレッタがベナードを可愛がるのと同じ理屈だろうか。
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