閑話 新たな敵(アナルド視点)

ズキズキと頬が痛む。

彼女にとっては意外にも優しい力だったにも関わらず。


本気だったら手形で済んでいたか…。

曲がりなりにも剣を握る握力がある。平手だからましだったのかもしれない。

なんとなく妻の優しさに触れた気がして、ふっと笑えば、横でジョアンが絶句していた。


「お前…頼むから、こんなときに余計な厄介ごとを増やさないでくれよ」


バイレッタが目覚めたため、一度職場に戻ったアナルドだ。

けれど軍本部の入り口から、ぎょっとした顔で出迎えられる。廊下を進んでも皆、一同に驚く。そして誰も、それから口を開こうとしない。重苦しい沈黙を蹴散らしながら目的の場所までなんとかやってきたが、部屋に入るなり秘密の作戦会議室は静まり返った。


そんな空気の中、ようやくジョアンが頬をどうしたのかと聞いてくれた。だが、アナルドは怪しげに微笑むだけである。あまりに仕事が忙しくて頭が飛んでしまったのかと思われるのも当然だ。

心配げな友人の様子に、きょとんと見つめ返せば部屋に飛び込んできたトレドに爆笑された。


「ほんとにいる、そして真っ赤だな。くっきり手形も綺麗に残って……スワンガン中佐、ものすごい噂になってるぞ。一体誰にやられたんだ。街娘か、昔の恋人か。それとも通りすがりか」

「なんだか一気に騒がしくなったね。と、お帰り。君は自宅で派手なお見舞いをしたようだけれど。奥さんの様子はどう?」


トレドの後ろから部屋に入ってきたモヴリスが肩を竦めた。

妻を紹介したのはモヴリスだ。きっと彼女の性格をわかっている。だからこそ、アナルドに危害を加えられる人物はバイレッタしかいないと気づいているのだろう。


「おかげ様で、軽傷で済みました。本日は念のため安静にしているように言われていますが、できればしばらくは外出を控えてもらいたいところです」

「なるほど、それでその様かな。あのバイレッタ嬢に、そんなことを言ったんだ? それは反抗されるだろう。彼女は昔から、行動を禁止されるのが何よりも嫌いだから」


彼女の場合は、行動の禁止ではなく、一方的に命じられて制限されるのが嫌いなようだ。妻のこれまでの人生を思えばわからなくもないが、緊急事態につきできれば受け入れてほしい。


「閣下、そのことで一つ頼みがあります。妻に護衛をつけてもよろしいでしょうか」

「あー、うん。その前にこちらも少し困ったことになっていてね」

「困ったこと、ですか?」

「ああ、ごめん。待たせたね、こちらにどうぞ」

「はい、失礼します」


大人になったばかりの、少年期の不安定な声で断りつつ、彼はモヴリスの後ろから部屋へと入ってきた。少年といっても差し支えないほどにあどけない。ただ、緑色の瞳は随分と静かな光を讃えていて、彼の知性が覗えた。

そして、まっすぐにアナルドを見つめてくる。


金茶色の髪をした少年に心当たりはなく、内心で首を傾げていれば察したモヴリスが苦笑した。


「彼はべナード=ナイトラン殿だ。バルトニア男爵を叙爵されているが、聞いたことはないの」

「中佐は奥様に夢中で他の家族のことに興味はないと伺っておりますから、構いません。それに、先に挨拶をすべきはこちらだったのに遅くなってしまった僕も悪い。初めまして、アナルド=スワンガン中佐。僕は貴方の妹のミレイナ嬢の婚約者です」

「ああ、そういえば伯爵家の嫡男と婚約したと聞いた気が…」


娘に興味のない父が、早々に婚約を取り付けたと聞いて確かに不思議に思ったが、とくに相手については問題がなかったので放置していた。

そもそも妻との仲が壊れることを積極的に願うような妹だ。自分にとっては敵としか思えない。そんな妹の婚約者は、果たして自分の敵になりうるのか、と考えた時、べナードがさらりと口にした。


「レタ義姉様のことで、大事なお話がありまして―――えっ」

「レタ義姉様…?」


アナルドは眼光鋭く、少年を睨みつけていた。

間違いなく、彼も敵だ。全く眼中になかったところから、突然新たな敵が現れた。

親しげに妻の愛称を呼ぶ人間など初めて見た。耳に入れたその響きに、ざっと血の気が引く音を聞いた。

レタだなんて呼ばせている妻の心境が信じられなかった。いくら可愛がっているからと言っても義妹の婚約者だ。つまり他人の男だろう。

自分が呼んでも許されるのだろうか。拒否される未来しか浮かばないが。


ぐるぐるしていると、ジョアンにぱしりと頭をはたかれた。


「未来ある若者を虐めるな。お前、無駄に威圧感あるんだから気をつけろよ」

「認可できない」

「いつの間にそんな短気になったんだ。昔のお前はもっとのんびりとしていただろう」

「ぶふっ、愛しい奥さんの影響かもね。バイレッタ嬢も随分と手が早い」


モヴリスがからかってくる横で、べナードが戸惑っている。


「え、と。妹さんとは清い関係です。結婚まで決して手は出さないと誓いますから、婚約を認めていただけないでしょうか?」

「あれ、なんだ。こっちも意外と面白いね。アナルド君が認めないと言ったのは君たちの婚約じゃなくて、バイレッタ嬢の呼び名だよ」

「え、レタ義姉様、ですか?」


再度、もたらされた言葉にアナルドの怒りは瞬時に沸点を超えた。

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