第71話 夫とは違う
「そういえば、スワンガン中佐を殴ったそうだな?」
帰りの馬車の中で向かい合わせで座りながら窓から外を眺めていたヴォルクが、ふと思い出したように口を開いた。
今、それを問うのかとバイレッタは詰めていた息を肺の底から吐き出した。
行きの馬車は無言で、工場に着いてからもほとんど口をきかなかった男だ。
なぜ、今になって尋ねる気になったのか。
「そんなに腫れていました?」
「伯爵家が爆破されてお前が意識不明の重体になったと一報が入ると、会議中に飛び出していったんだが、次の日に戻ってきたら頬を真っ赤に腫らしている。中佐殿は何もおっしゃらなかったが、そんなに手が早いのはお前だけだろう?」
向けられた鳶色の視線は、揶揄を多分に含んでいる。
おっしゃる通りです、と頷くには少し癪に障る。
過去を知られているというのは、なんともバツが悪いものだ。
「答えないのは肯定と一緒だぞ。そうか、やはりお前か」
「随分と楽しそうですね」
「人の忠告を聞かないからだ。自業自得だろう」
なるほど、ヴォルクは祝勝会の一件を根に持っている。
悪妻の噂をせっかく伝えたのに、追い払われたのだから彼の自尊心は相当に傷つけられたのだろう。
相変わらず、陰険で性格の悪いことだ。
「あら、私の夫は部下の方に慕われていると思っておりましたわ」
「ふん、あんな人形のような男が? 上官に取り入るしか能がないだろうに」
それは貴方も同じでは?
いや、彼の場合は自尊心が邪魔をして、上官に取り入ることすらできそうにないように思えた。
相変わらず狭量な男だが、なぜ軍にいるのか不思議だ。確かに体力的な面では軍人としてやっていけるだろうが、学生の頃は周囲と同じで文官志望に見えた。彼は爵位が低いので成績で上位になって中央に就職先を斡旋してもらえるように励んでいた筈だ。
そういえば、祝勝会で声をかけられた時にもひっかかりを覚えたのだった。
だが、アナルドのせいですぐに意識は夫に向けられてしまった。
「軍人ならば上官命令は絶対でしょうに。ですからハワジャイン様もこうして私の護衛を務めていらっしゃいますでしょう?」
朝に会った時に上官命令だから仕方がないと本人の口からきいている。
夫と同じ立場で、アナルドの方が上手くこなしていることを仄めかせば、ヴォルクはさっと顔を赤らめた。
「お前はどうしてこうも腹の立つことばかりを言うんだ」
「まあ。事実を指摘されて腹を立てるなどと帝国軍人たる方がそんな狭量なことをおっしゃられるのですか」
「相変わらず生意気な口を…っ、女はただ男に甘えていればいいだろうに」
そんな女がお望みならば、バイレッタに構わなければいいのだ。
瞬時にそんな反論が浮かんだが、それを口にすることは叶わなかった。
おもむろに立ち上がったヴォルクが、そのままバイレッタの両腕を掴んで背後に押し付けたからだ。背面にも柔らかな素材で作られている伯爵家の馬車の内装のおかげで押し付けられても傷めたりはしないが、掴まれた部分はひどく痛む。
息も触れそうな近くで、彼の鳶色の瞳が細められた。
「何をなさるのですか」
「この状況で怯えもしないのは、慣れているからか。好き者だからか。お前を喜ばせることは本意ではないが、乗ってやろう」
「な、に…んんっ」
愉悦に歪んだ唇が押し当てられて、バイレッタは思わず目を見開いた。
彼には嫌われているはずだ。むしろ憎まれていると思っていた。
嫌がらせにしてもこんな行為になるなど考えもしなかった。
油断していたのは確かだ。
仮にも上官の妻だ。手を出すことを、この狡猾な男がするはずはないと高を括っていた。
それが実際に口づけを受けている。
その事実に、突き抜けるような激しい嫌悪が身の内を貫いた。
全身の肌がさざめくように鳥肌をたてる。
いやだ。
だって彼とはこんなにも違う。
瞬時に思考は巡り、囁くように名前を呼ぶ声が聞こえる。
『バイレッタ、欲しいのはコレでしょう?』
好き勝手に奔放にしているようで、行為の一つ一つが優しいことを知っている。
いつも窺うように尋ねてくるのは、気遣われているからだ。
それでも途中からは夢中になって自分の体に溺れている男を、同じく朦朧とした意識の中で嬉しく思うことに気づいている。
これまでの人生で嫌悪していた女の部分で、夫に求められることを喜ぶ自分は確かに存在するのだ。
そして、今。
相手が誰でもいいわけではないことを知ってしまった。
「はっ、これに懲りたら、少しは大人しくすること…だ?! な、なぜ泣くんだっ」
狼狽えるヴォルクが慌てたように手を放した。自由になってもバイレッタはただただ大粒の涙を溢し続けるのだった。
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