チャプター 4-4
約束の場所──展望台へ着くと茜色の空を背景に佇むキラキラとした影が目に入る。その正体は、風に吹かれ、乱れた黒髪。それが夕陽を受けて、
まさに息を呑む美しさ。いや、それ以上といってもいい。それ程美しい光景。それが僕の中に焼き付いていたから、それだけは忘れないでいれたのだろう。
しばらく見つめていると、影はこちらに気付き、早足で駆け寄ってきてくれた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、わたしもさっき着いたところです」
ニコっと笑顔を向けてくれる都ちゃん。そんな顔をされると野暮な事は言わないでおこうと思う。しかし、それで何もしないのは違うので僕の上着を貸してあげる。今年のこの季節はまだ肌寒い。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
心の準備をするように少し間を置いてから、描きあげた絵を都ちゃんへと手渡す。
「……っ! お兄さん、色を」
「知ってたんだね」
「……はい……」
──僕が色を塗れなくなったのは小学四年生の時、授業で僕の絵を見たクラスメイトの一言がきっかけだった。
『黒川の絵って色ぬらない方が上手いよな』
ショックだった。
別に、自分の絵に自信があった訳じゃない。それどころか、絵が上手い、下手なんて考えた事すらなかった。でも、ずっと自分の思うまま、感じるままに絵を描いてきた僕の心を揺らがせるくらい造作もない言葉だった。
それだけでも、ショックを受けているのに、
『あ、それワタシも思ってた。 なんか色ぬると子どもっぽくなるっていうか』
『のっぺりしてるよな』
『そうそれ』
『分かる、分かる。 下書きは黒川だけど、完成したら林のが上手いって思うよな』
他のクラスメイト達も便乗してきた。
きっと、彼らには悪気なんてない。ただ思った事を口にしているだけ。
だから、笑って流そうと思っていた。でも、そうはいかなかった。
『なら、色ぬる意味ないじゃん』
色を塗る意味がない。
下手なのはまだいい。まだ技術が足りないからしょうがないと思える。
けど、それだけで意味を失ったら、僕の絵には何が残るのか? 今までしてきた事は何だったのか?
あの言葉は、あの笑顔は全部、全部嘘だったのか。と怖くなってしまった。
そして、僕の中の大切なものがバラバラに砕け散り。
『 まぁ、授業だからぬらない訳にはいかないけどなー』
『…………』
『おい、黒川? どした?』
『…………』
『おーい? 黒川ー?』
『あーあ。 アンタが言い過ぎるから』
『え、おれか、おれが悪いのか? てか、お前も言ってたじゃん!』
『いやいや、ワタシはそんな言ってないし』
『うっ。 な、なぁ、黒川! そんなことないよな? な?』
『……ぼくもさ、ぬるの苦手だし。 ぬらない方がいいと思ってたんだ』
『……ははっ! だよなぁ! 驚かせやがって! このこのぉ!』
『はは、やめろって。 ……ほん、とうに』
これ以上、傷つきたくなくて、周りに合わせて自分の絵に──僕自身に背を向けてしまった。
そして、それ以来、色を塗れなくなってしまった。
色を塗って、また同じ事を言われたらまた同じように背を向ける。それが怖くてたまらなかった。弱い僕が動けなくなるのに充分過ぎる理由だ。
それから、誰に何と言われようとも、どんどん絵を描く事が虚しくなっていっても、色を塗らなかった。これから、何があっても二度と塗らない。
ずっと、そう思ってきた──。
「ごめんなさい、お兄さん。 勝手に聞いてしまって」
「謝らなくていいよ」
この話を知っている人は限られている。母さんはこの話を絶対にしない。青二も知らないフリをしてくれる。
となると、話した可能性があるのは当時の担任である小田山だけになる。だから、大体の経緯は察せる。別に都ちゃんは悪くない。それに今は知られている方がいい。
「それより、この絵、どう?」
「うぅ、それは……その」
頰を赤く染めて視線をそらす都ちゃん。それもそのはず、前の夕景の絵とは違い、今回はある少女を描き加えた。それが誰なのか都ちゃんは分かっている。いや、分からない訳がない。
「……私、ですよね?」
「うん。 そうだよ」
正確には、
「……どうして私を?」
「ずっと、夢で見てたんだ。 あの夕景を──」
幼い日、僕は『キミ』と仲良くなりたかった。だから、仲良くなる為にあれやこれやと頑張ったが、どれもダメだった。悲しいくらいに。
ある日、『キミ』は一人でどこかへ行ってしまった。僕は、慌てて『キミ』を探して、とある公園へと辿り着いた。
そして、そこで出会ったんだ。夕陽に照らされ、キラキラと輝く最高の『キミ』に。そして、僕は目的を忘れてしまう程綺麗な『キミ』に見惚れ、感動した。だから、すぐに『キミ』の元へ行き、それを伝えた。
でも、その感動はあまり伝わらなかった。だから、その時見た『キミ』を絵に描いて伝えたんだ。『キミ』はキラキラしてるって。
すると、『キミ』は笑ってくれた。僕の手を取ってくれて、やっと『キミ』と仲良くなれた。それが嬉しくて僕は『キミ』とずっと、ずっと一緒に居たいとさえ思っていた。それ程『キミ』が大好きだった。なのに、僕は『キミ』を──。
「でも、忘れてた。 思い出を、君を」
「…………」
「そんな僕に思い出させてくれたんだ。 あの絵で──僕らの事を、ずっと絵を描き続けていた理由を。 だから、描いたんだよ」
「……じゃあ」
「ごめん、
「そう、ですか」
輝いた表情が一転、がっくりと肩を落とし俯く都ちゃん。悲しげな彼女を慰める為に、頭に手を伸ばす。しかし、そんな事をする必要はないと思い、途中で止め、ただじっと待った。彼女を信じて。
しばらくするとゆっくりと顔を上げ、こちらを見つめてきた。それに微笑み返す。ニッコリと。
「……お兄、さん……」
「ずっと言い訳してた。 逃げることを選んだのに、こんなにも苦しいのに、絵を描くのをやめない事に」
「…………」
「やめようと思うと、あの夕景を夢で見た。 そして、キラキラする君を見て、思い止まった」
「……ん……」
「僕はずっと大好きな君に、大好きな絵を描いて渡したかったから描き続けていたんだね」
「……んぅ……」
「あの時の君が僕を繋ぎとめてくれて。 今の君が僕に思い出させてくれた。 ありがとう、都ちゃん」
また色を塗れたのは支えてくれた人、見守ってくれた人のおかげもある。でも、一番は君のおかげだ。
君の描いてくれた絵が僕の情熱を呼び起こしてくれた。キラキラと。
「手、出して」
「……はい……」
差し出してくれた右手に手を重ね、そっとストラップを手渡した。
「これで、何もかも元通りって訳にはいかないけどさ。 僕らにとって大切なものだから」
「……ありがとう、ございます」
ストラップを手に微笑んでくれる都ちゃん。でも、まだだ。まだ僕は大切な事を伝えていない。
「僕は君が悪い子だなんて思わない」
「え?」
「例え、君の中ではそうだとしても、僕の中では違う」
「…………」
「だから、否定するよ。 君は、純粋で、素直で、優しくて、良い子だよ」
「ん、んぅ……」
「絶対に悪い子じゃない」
「……ん、ん、んぅ……」
「だから、ね……自分の気持ちを抑えなくていいよ」
「っ!」
仲直りしたあの日、僕は彼女の良い子であり続ける事──正しさを否定しなかった。それは、彼女の気持ちを尊重した訳じゃなく、単に人とぶつかるのが怖かった。だから、"
でも、今は違う。僕は、彼女に勇気をもらった。だから、絵と一緒に伝えるんだ。その絵のように
「どう、して……そんなこと言うんですか……」
「だって、僕をキラキラさせてくれた君がキラキラしていないなんて我慢出来ないよ」
「……っ……ぅ……あ、ぅ……っ!」
──ドン。
都ちゃんの振り上げた拳が僕の胸を捉える。
──ドン、ドン。
二度、三度。いや、何度も、何度も、
「ダメです……。 嫌です……。 すぐそうやって、優しくして……。 嫌い、大嫌いです……」
怒りとともに僕の胸を捉えた。
「……うわぁぁっ、バカ、バカ、バカっ! なんで、なんで忘れちゃうんですか! 約束したのに! 大切な、約束だったのに……言ったら、思い出すって……バカぁーっ!!」
──ドンッ。
それは、とても重い一撃で胸が壊れてしまうと思う程ズキズキと痛んだ。
「はぁ、はぁ……」
「ありがとう、都ちゃん」
「う、う、ぁ、あぁっ」
また拳が振り上げられる。
──ドンッ。
「っ!?」
しかし、それが僕の胸を捉える事はない。
何故なら、先程の衝撃は叩いたのではなく、都ちゃんが僕に抱きついてきたものだから。
「う、うぅ……」
都ちゃんの体がプルプルと震えている。顔は胸部に押し当てているので、どんな表情をしているかは見えない。だが、容易にイメージ出来る。
「……嘘です……全部本当だけど、嘘です……」
「うん」
しばらくの沈黙の後、それは紡がれた。
「もう、忘れませんか?」
「忘れないよ」
「もう、驚きませんか?」
「驚かないよ」
「もう、声を荒げませんか?」
「荒げないよ」
「もう、寂しそうにしませんか? もう、誤魔化して……隠しませんか?」
「しないよ、絶対に」
少しずつ都ちゃんの声が弱々しくなっていき、それに反比例するように抱きつく力が強まっていく。
「妹のような、じゃ……
ずっと。ずっと、君は──。
都ちゃんの背に手を添え、囁く。彼女にだけ聞こえるように。
そして、抱きつく力が少しずつ弱まっていった。
♪
-都の日記-
5月1日 お兄さん。
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