6・嘘を重ねる王女
「……魔王殿から脱出する」
確認するようにその言葉を繰り返した少年に、少女は肯定する。
「ええ、そうですわ。私たちは魔物の巣窟である魔王殿から脱出するのです。あなたはここが危険な場所だということは理解できますわよね?」
少年は首肯した。
なにも思い出せないが、魔物の存在は酷く恐ろしくて堪らない。
そんなものの巣窟が安全である筈がない。
「でも、どうして僕たちこんな所にいるの?」
「待って。細かい説明は後にしましょう。先ずはここを脱出するのが先です。いつまでも一箇所に留まっているのは危険です」
そして綻びのない嘘を考える時間が欲しい。
「逃げるって、どこへ?」
「先ずは、この幽閉の塔からですわね」
「でも、この外は安全なの?」
「分かりません。私もずっとここに閉じ込められていましたから。ですが、ここに居続ければ、状況が悪い方向へ進むのは確実です。巡回の魔物が来るでしょうから」
「……魔物が来る」
恐怖で少年の顔が蒼白になる。
元々魔王は人間だったと聞き及んでいる。
魔王としての記憶を失ったため、精神的退行を起こし、その心は少年の状態に戻り、魔物に対する恐怖も戻ったのだろう。
それは好都合だ。
しかし、ふとマリアンヌは疑問が生じた。
(では魔王は本来、魔物に組する人間ではなく、魔物を恐れる心を持つ普通の人間だったということなの? それがどうして魔王に?)
しかし今は疑問の答えを模索している場合ではない。
マリアンヌは大扉を指差す。
「出口はここしか見当たりません。でも開かないのです。二人ならなんとかなるかもしれません。手を貸してください」
少年はマリアンヌと一緒に扉を押し始めた。
だがやはり僅かな隙間が開いただけで、それが限界だった。
力を抜いた途端、閉じてしまう。
「駄目ですわ。他の出口を探したほうが早いかもしれませんわね」
マリアンヌは諦めて、周囲を見渡した。
多少危険だが、上階の窓から降りる方法がある。
カーテンなどの布類を集め、それを固く結んで地上まで届く一本の綱にするのだ。
閉じ込められていた部屋では鉄格子が邪魔だったし、地上に達するまでの布が集められなかったこともあって、実行に移せなかった。
だが自由に動ける今なら、布を集めるのも比較的容易であるし、鉄格子の嵌っていない部屋もあるだろう。
問題は、なにかの拍子に手が離れたり、縛った部分が解けたりすると、地上まで落下することだ。
綱を下ろす部屋の高さにもよるが、怪鳥に掴まっていた時よりは明らかに高度は低いから、運が良ければ軽傷で済むかもしれない。
運が悪ければ重傷で、最悪の場合は死亡。
それに、誘拐してきた王女を閉じ込めてある、幽閉の塔という目立つ場所の外壁を伝って降りてくる人影を、誰も見咎めないかどうか、そのへんも賭けになる。
不意に少年がマリアンヌに提示した。
「ねえ。この扉、もしかして押すんじゃなくて、引いて開けるんじゃないかな?」
「え?」
脱出策の考案に集中していたマリアンヌは、その意味を理解するのに少しの時間を要した。
少年が取手に手をかけ軽く引いてみると、扉は蝶番の軋む音と共に内側に開いた。
「……」
マリアンヌは落ち込んだ。
幽閉の塔の正面扉を抜けた先は庭園跡だった。
かつては緑が溢れ、色取り取りの花々が咲き乱れる美しい庭園だったのかもしれないが、今は枯れ木だけの廃園と化している。
本当に枯れ木なのだろうか。
マリアンヌは疑問に思う。
奇妙に捻れた樹木は針金のような枝を伸ばし、それらが絡み合い、幽閉の塔を囲う檻のように思える。
実際庭園から出る門扉へは、木々が邪魔をして真っ直ぐ進めず、迷路のように紆余曲折する必要があった。
へし折って強引に進もうともしたが、見た目より強靭で、針のように鋭い小さな枝やささくれが手を傷つけるので、諦めた。
死してもなお朽ち果てずにその姿を留める木々は、なぜか磔にされた無実の罪人が並ぶ様を連想させた。
「つまり、簡単に話を纏めると、君はイグラード王国の王女様で、魔王に捕らえられていた。そして僕もどこかから魔物に捕まえられて、ここで君の世話係をしていた」
「そうですわ」
廃園を進みながらマリアンヌは、真実の中に虚言を巧みに混ぜて、少年に説明をした。
ここで少年の信頼を勝ち取らなければならない。
もし少年に不信感を持たれれば、魔王殿脱出は不可能に近くなる。
虚言は真実に混ぜると判明し難くなるというのは、家庭教師のサリシュタールが教えてくれた事柄だ。
もっとも先生は騙されない為に、虚言を弄する技術を伝えくれたのだが、役に立っているのだから、使用法には目を瞑ろう。
「それで僕たちは魔物に悟られないように脱出計画を練って、ついに実行に移した。でも螺旋階段で僕は転がり落ちてしまった」
「よっぽど緊張してらしたのね。私はてっきりあなたが亡くなってしまわれたと思いました」
「そして僕の体に魔物が乗り移ったんじゃないかと思ったんだね」
魔物は人間の死体に取り付き、自由に操ることができるという。
食人鬼や吸血鬼、徘徊する死体などと称される魔物だ。
「明らかに様子が変でしたから。私、本当に怖かったですわ」
「ごめん」
「別に謝るようなことではありませんわ。それに、もっと驚かされましたし」
「うん」
頷く少年は少し表情を暗くする。
「本当になにも思い出せませんの?」
「うん」
少年は益々鎮痛な面持ちになる。
しかしそれはマリアンヌにとって好都合で、思わず笑みが浮かびそうになるのを必死で堪えた。
「分かりました。思い出せないものは仕方がありません。とにかく計画通り、魔王殿から出ることだけ考えましょう。あなたが誰なのか、それを調べるのは私たちが助かってからにする。良いですわね」
当面の目標が与えられ、少年は不安が紛れたのか少し明るい声に変わる。
「うん、分かった。先ずは二人で魔王殿を逃げ出そう」
マリアンヌの交渉の才能が告げる。
ここは信頼関係を築く重要な箇所だ。
足を止めて振り返り、真摯な面持ちで少年の瞳を見据える。
「約束ですわ。二人で一緒に魔王殿を脱出する。良い、二人一緒にです」
「約束する。二人で一緒に出るんだ」
少年は力強く頷いた。
記憶のない彼はそのために孤独に苛まれ、頼れる者、信頼できる存在を求める。
そしてその役割を自分が進んで引き受ければ、少年は容易に自分の言葉を信じ従うだろう。
これで良い。
マリアンヌは事が上手く進んでいることを確信する。
現実的に考えれば、通常の状態で魔王殿を脱出することなど不可能だ。
魔王殿とは、魔王ゲオルギウスの居城にして、魔物の総本山。
つまり魔物の巣窟。
どれほどの数の敵がいるのか想像もつかない。
しかし彼らの王たるゲオルギウスが、なんの前触れもなく突然消えれば、指揮系統になんらかの変化が起こり、それは高い確率で混乱を誘発する。
同時に魔王本人と共に行動することによって、なんらかの偶発的、突発的問題に対処できるかもしれない。
勿論それでもなお魔王殿を脱出する確率は低いだろう。
特に危惧すべきことは魔王の記憶が甦ることだ。
魔王は記憶を取り戻したその場で、自分を捕らえるだろう。
そしてどこかへ連行する。
待ち受けているのは、あまり想像したくない類のことに違いない。
しかし今の自分は選択の余地などない。
実行あるのみ。
今の自分にはこの言葉がもっとも相応しい。
そして魔王殿からの脱出に成功し、王国へ帰還した暁には、魔物の脅威はこの世から完全に消滅するだろう。
少年になにも思い出させず、なにも知らせないまま、彼の全ての運命を、記憶ごと断頭台にて断絶させることによって。
「マリアンヌ、どうしたの?」
少年の怪訝そうな声に、マリアンヌは我に返る。
思考が顔に表れていたのかもしれない。
誤魔化すために微笑を浮かべる。
宮廷での会合類で作為の笑顔は慣れている。
「いえ。そういえば、あなたの名前、私まだ聞いていなかったのを思い出しまして」
「名前?」
「そう、名前。こっそり話をするだけで精一杯でしたもの、自己紹介をする余裕なんてありませんでしたわ。でも、困りましたわね。あなた覚えていらっしゃらないもの」
「そう……だね」
彼の顔に陰りが生じ、気まずい雰囲気が漂う。
この誤魔化し方は失敗だっただろうか。
いや、挽回の方法は簡単だ。
「そうですわ、私が名前を付けます」
「え、君が名前を付けてくれるの?」
乗ってきた。
名前は自己存在を確立する重要な言葉だ。
それを与えてくれる者は大きな存在となる。
名付け親というのは、偉大な存在なのだ。
「はい。あなたが思い出すまでの名前です。そうですわね……」
どんな名前を付ければ良いだろうか。
あまり長く考えると、効果は薄れる。
もちろん本名を告げるなど以ての外だ。
マリアンヌは不意に王城の衛兵の一人を思い出した。
特に親しいわけではないが、彼の名前を借りよう。
「……オットー。オットーというのはどうでしょうか?」
「オットー……オットー」
繰り返す少年は嬉しそうに微笑んだ。
「オットー。良い名前だ」
「そうでしょう。良かった、気に入って貰えて」
少女も一緒に微笑んだ。
一時の安堵の気持ちからと、そして不安と恐怖を紛らわす為に。
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