5・一世一代の大嘘
マリアンヌ王女は、自分が引き起こした事態を受け入れるのに、多大な労力を費やした。
螺旋階段が終る、幽閉の塔二階の渡り廊下で、魔王ゲオルギウスは完全に気絶している。
裾を踏みつけられて、階段を転がり落ち、気絶した魔王。
大の字になって寝ているその姿は寧ろ滑稽でさえあった。
しかし五階分の螺旋階段を転落して、死なないどころか怪我らしい怪我が一つもないのは、さすが魔王と賞賛すべき事なのか。
周囲にはどういうわけか衛兵の姿はなく、騒ぎを聞きつけて魔物が集まる気配もない。
ならば、逃げるのは今を置いて他にないのではないだろうか。
マリアンヌは正気を取り戻し、即座に行動に移す。
ドレスの裾を掴み上げ運足にある程度の自由を確保し、正面階段を駆け下りた。
幽閉の塔の正面扉を開けようと、両手を添え渾身の力を込めて押す。
しかし巨大な両扉は微動だにしない。
取手が簡単に動くことから鍵がかけられているのではないのが分かる。
ただ単純に重量が有り過ぎるのだ。
他の場所から出ようにも、出口は他に見当たらない。
仕方がないので、もう一度挑戦する。
「よいしょ……このっ」
ほんの僅かだが動いた。
マリアンヌは顔を輝かせたが、しかし少し力を抜いただけで、扉は元の位置に戻って閉じてしまった。
落胆の色を隠せなかったが、少しだけでも動いたということは、開閉は不可能ではない証明だ。
マリアンヌは再び全身全霊を込めて扉を押そうとした。
「ねえ」
「わあ!」
不意に声をかけられ、驚愕の叫び声を上げて振り向いた背後には、居て欲しくない人物が立っていた。
銀の髪に赤い瞳の少年の姿。
魔王ゲオルギウス。
こんなに早く目を覚ますことを予想していなかったマリアンヌは、湧き上がる恐怖に抵抗できなかった。
思わず知らず彼から少しでも逃れようと後退るが、後方は開かない両扉だ。
これ以上は下がれない。
「あの、ごめん、僕は、その、驚かせるつもりじゃ、その……えっと……」
魔王は何か良く分からない科白を口にしている。
いや、自分が冷静さを欠いて、上手く聞き取れていないだけだ。
(落ち着いて。とにかく落ち着くのよ)
頬に伝う一粒の汗を感じながら、マリアンヌは迅速に平常心を取り戻すために、呼吸を気取られないように静かに整え、正常な判断力を回復させるよう努める。
そして状況を好転させる機会を窺うのだ。
言葉を途中で途切れさせたまま、魔王はそれ以上話そうとしない。
こちらの弁明を待っているのだろうか。
呼吸五回ほどの時間が経過してから、勇気を振り絞り訊ねた。
「……あなたは、私をどうするおつもりですの?」
階段から突き落とした報復を行う意図があるのか、もしくは連行した場所でなにを行うのか、両方の意味を含めた質問だった。
「どうするって?」
しかし魔王は聞き返してきた。
質問内容を限定しろという意味なのか、それとも単純に説明不足だったのか。
「どうって、私をですわ」
時間稼ぎのつもりで、今度は意図的に曖昧に答えた。
だが思惑を見抜いたのか魔王は怒りを感じたように声を張り上げた。
「ねえ、君は一体なんの話をしてるの? 僕はただ、ちょっと訊きたい事があって、それで声をかけただけで、その……僕は……」
次第に声が小さくなっていき、最後には萎むように声が途切れる。
ここに至ってマリアンヌは魔王の様子が奇妙なことに気づいた。
なんというか、口調や仕草が本当に見かけの姿そのままの少年の様で、本来あるはずの威厳や恐怖感、魔王の強圧な存在感がなくなっている。
しかし疑念の解消は後回しにして、とにかく会話を続ける。
会話が途切れれば危険率が増すような気がするのだ。
確か交渉術の基本で、教えてくれたのはサリシュタール先生だった。
「なんですの? 訊きたいことって」
思わず強い口調になってしまい、魔王の機嫌を損ねたかもしれないと、背筋に冷たい汗が伝うが、彼の反応は予想とは大きく違った。
明らかに怯んだのだ。
そして弱々しい声で質問する。
「あの、ここはどこなの?」
「……」
質問の意味を理解することがマリアンヌにはできず、茫然と沈黙してしまった。
彼はいったいなにを言っているのだろう。
「ごめん。今のは忘れて」
取り繕うように魔王ゲオルギウスは前言を取り消すが、マリアンヌ王女は遭えて質問に答えた。
「魔王殿ですわ。あなたが一番よく御存知でしょう? 魔王殿の幽閉の塔」
途端に魔王の顔が青ざめ、うろたえ始めた。
「魔王殿の、幽閉の塔。それって、なんだか凄く危険な場所のように聞こえるんだけど」
「そう、ですわ、ね」
歯切れの悪い同意しか返せない。
魔王殿は魔物の本拠地であり、危険なのは当然だ。
しかしそれは人間にとっての話であり、魔王である彼には最も安全な場所の筈だが。
「どうしてそんな場所に僕たちいるんだい? それに……」
まるでもっとも聞かなければならないことを、ようやく思い当ったかのように、魔王は質問してきた。
「それに君は誰なんだい?」
魔王のその質問にマリアンヌは唖然として、自分が間抜けなほど口を開けてしまっていることにも気が付かない。
(……まさか? ……まさか!?)
困惑のマリアンヌの脳裏で、一つの可能性が閃いた。
それは思いついた自分自身信じることができないことだったが、確認には少しの質問で事足りる。
なるべく刺激を与えないように、丁寧に訊ねる。
「あの、質問を質問で返すようで恐縮なのですけれども、あなたご自分の名前を言えますか?」
魔王ゲオルギウスの様子が一変した。
表情が抜け落ち、しかしそれは冷静、冷淡であるというより、今の彼の心情を表す術が存在しない為に、結果的に無表情になってしまったような。
「僕は……」
マリアンヌから目を逸らし、視線を彷徨わせる。
「僕は……」
返答は出ず、やがて唇が戦慄き始める。
「僕は……」
恐怖が顔に表れ、漸く紡いだ言葉は、質問の答えではなかった。
「僕は誰なんだ?」
マリアンヌ王女は今度こそ頭の中が真っ白になった。
確かにあれだけの高さから螺旋階段を転がり落ちたのだ、頭を何度も打ち付けただろう。
普通の人間なら死んでも不思議ではないくらいの勢いの転落だったのだ、魔王とはいえ怪我の一つや二つあっても不思議ではないだろう。
しかし、よりによってそんなことが起こりえるのだろうか。
この状況下で、こんな馬鹿げた喜劇のような出来事が。
「……記憶喪失」
呟くマリアンヌは、全てが夢なのではないだろうかという気さえしてきた。
魔王さらわれた王女。
まるでおとぎ話の始まりのような出来事は、考えてみれば現実に起こる筈がないではないか。
幽閉の塔の一ヶ月も、全ては転寝に見る泡沫の夢。
しかしその考えも、先に魔王に掴まれていた腕の痛みで撤回される。
明確な痛み。
夢ではない。
「僕は誰なの? 僕たちどうしてこんな場所にいるの? ここ、嫌だ。よく分からないけど、嫌な感じがする。ねえ、君はなにか知ってるの? 教えて! お願いだよ!」
堰を切ったように矢継ぎ早に質問をしてくる魔王の様子に、王女の方が途方に暮れる。
こんな事態が起こることなど誰が予想できるだろうか。
誰が即座に受け入れられるだろうか。
だがここでいつまでも茫然と立ち尽くしてもいられない。
こうしている間にも魔物がやって来るかもしれないのだ。
ここは魔王に適当な虚言を吹き込んで、迅速に遁走するのが最善だろう。
魔王殿脱出の成功率は絶望的に低いだろうけれど。
(……ちょっと待って)
不意にマリアンヌの脳裏に奇策が閃いた。
天啓のように強烈な自己主張をするその方法は、一桁の確率を二桁ぐらいに上げる。
しかし失敗は、即座に死に繋がる。
だが魔王は自分をどこかへ連れて行こうとした。
それがどこなのか知らないが、ここに来た時から想像していた、あまり考えたくない嫌な予想を実行する為に違いないのだ。
そして王国からの救助は現れない。
そこに神の奇跡の手が差し伸べられ、信じられないような千載一遇の好機が到来した。
この機会を逃す理由がどこにあるというのか。
失敗するか成功するか、どちらにせよ行動に移さなければ、確率は零だ。
(覚悟を決めなさい、マリアンヌ。助かる方法は他にありません)
己の勇気を鼓舞して、奇策を実行に移す。
「待って。落ち着いて。良いこと、先ずは深呼吸して、心を落ち着けなさい」
「う、うん」
助言に素直に従って深呼吸を始めた魔王に、マリアンヌは決意を固める。
大丈夫、これなら必ず上手く行く。
「あなた、自分が誰なのか本当に思い出せないのですね」
確認を取る少女に、震えるように数度首肯する魔王の反応は、虚言を弄しているとは思えない。
もしこれが演技なら、演劇男優部門で受賞すること請け合いだ。
そして自分に必要なのは、演劇女優新人賞を獲得できる演技力。
「分かりました。良いですか、まず私たちは」
彼の手を柔らかく優しく包むように握ると、少女は一世一代の大嘘を吐いた。
「私たちは一緒に魔王殿から脱出するところでしたのよ」
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