魔王殿

神泉灯

1・目覚めと喪失

 少年は目覚めた。

 天窓のステンドグラスに彩られた灰褐色の光が瞳に差し込み、眩しくて目蓋を思わず閉じる。

「……うぅ」

 小さな呻き声を上げて上体を起こすと、網膜を刺激する光を遮断しようと、少年の意思に逆らい閉じようとする目蓋を、精神力を振り絞り抉じ開けて、周囲を見渡した。

 石造りの建物で、大きな屋敷や城の大広間のような印象を受ける。

 しかし手入れが行き届いていると評価することは不可能に近く、調度品は埃を被り、絨毯は変色し、高い天井から吊るされたシャンデリアは装飾硝子が半分近く剥げ落ちている。

 この場所が放置されてからどれくらいの時間が経過しているのか正確にはわからないが、短い時間ではないのは容易に窺い知れた。

 誰もいないのか閑寂としている。

 広間の左から右に渡り廊下が掛けられ、自分はその中央にいるようだ。

 正面には一階へ下りる幅広の階段。

 反対側には上階へ続く螺旋階段の入り口がある。

 少し覗いて上を見たが、円を描いているために先は見えない。

 しかし幅から推測すれば、この建物は相当な高さを持つ塔なのだと見当が付く。

 少なくとも五階以上はあるだろう。

 少年は不意に後頭部と右こめかみに鈍痛を感じた。

 いや、始めから感じていたのを自覚し、そして一度意識すると、鈍痛はなかなか引いてくれない。

 なぜ、痛みがあるか、その原因は。

(……そうだ、僕は確か……)

 少年は思い出した。

 自分はこの螺旋階段から転がり落ちたのだ。

 どの階層から落ちたのか覚えていないが、よく無事でいられたと、自分の身の事ながら少し驚いた。

 その螺旋階段を上がろうとして、着用している外套のように長い法衣の裾を踏んで躓き、転びそうになった。

 裾を摘み上げて足の自由を得ようとするが、大差はない。

 面倒なので脱いでしまい手摺にかけた。

 法衣の下は動きやすい衣服で、東洋の大衆が好んで日常的に着ている民族服に似ている。

(……あれ?)

 胸中疑念を呟いて、周囲を再び見渡した。

(ここは、いったいどこなんだろう?)

「よいしょ……このっ」

 不意に誰かの声が耳に届いた。

 小さな声だが、緊迫した声質を含んでいる。

 一階からだ。

 階下には、渡り廊下からは微妙な角度で視界に入らなかった、大きな両扉が在った。

 そこで薄い桃色のドレスを纏った女の子が、その身長の三倍以上はある高さの両扉を開けようとしている。

 しかし少女の細腕では、過大な重量の扉と潤滑性を失った蝶番には太刀打ちできず、少しの隙間を開けることさえできないようだ。

 もしかすると鍵がかかっているのかもしれない。

 階段を下りるが、渡り廊下から大扉に渡って敷かれている古い絨毯は、少年の足音を消し、すぐ背後まで来ても、少女は全く気付かない。

 扉を開けることに一生懸命の少女の様子に、少年は声をかけるべきかどうか少し逡巡したが、意を決すると実行に移した。

「ねえ」

「わあ!」

 小さな呼び声に過敏に反応して、少女は叫び声を上げて振り返った。

 それには声をかけた少年のほうが驚いてしまい思わず後退り、驚愕に見開いている目を向ける少女に、驚かせたことの謝罪を意識せずに始めた。

「あの、ごめん、僕は、その、驚かせるつもりじゃ、その……えっと……」

 しかし事前に構築しておかなかった科白というものは殆どの場合、文法や選んだ言葉は支離滅裂で、少年は自分でも分けの分からないことを口にしていると自覚した時点で止めた。

 少女は呼吸を乱し、少年からできるだけ遠ざかろうとしてか、扉に背中を貼り付けている。

 少年は少女が自分に恐怖に近い警戒の念を抱いているのを理解し、これ以上近付かないことにした。

 女の子を怖がらせてはいけない。

 そう教えてくれたのは誰だっただろうか。

 そして少女の警戒を解くにはどうすれば良いのか、様子を観察しながら思案する。

 年齢は十台半ば頃だろうか、小柄で思春期特有の華奢な体付きをしており、腰まで届く金色の波の髪は、桃色のドレスに良く映えている。

 少年の目を見据えて離さない深い青の瞳には怯えが混じっているが、しかしそれ以上に危険な存在に対抗しようとする強靭で不屈の意志が感じられた。

 気が付けば少年は少女に見惚れていた。

 いつまでそうしていたのか、中断させ正気を取り戻させたのは、他ならぬその少女だった。

「……あなたは、私をどうするおつもりなのです?」

「どうするって?」

 険のある口調の、唐突な質問を理解することが上手くできず、少年は聞き返す。

 しかし今度は少女の方が上手く理解できなかったようで、少し戸惑った声質が混じる。

「どうって、私をですわ」

 会話が噛み合っていない。

 もっと建設的な流れに乗せなければ。

「ねえ、君は一体なんの話をしてるの? 僕はただ、ちょっと訊きたい事があって、それで声をかけただけで、その……僕は……」

 少女の瞳に見詰められ、ささやかな主張の意識が消え、それに連れて声が少しずつ小さくなっていき、最後には途切れた。

 少女は少年の態度に怪訝な表情を見せて、しかし自然と満ち溢れる威厳と共に質問を許す。

「なんですの? 訊きたい事って」

 少女に気圧されつつも、先に断りを入れた以上なにか質問しなければいけないという責任感に押されて、少年は思い付いたことを口にした。

「あの、ここはどこなの?」

 言ってから、質問内容が酷く間抜けで馬鹿げたもののように思えて、気まずくなった。

「……」

 少女は即座に答えず、質問の意味が全然理解できないというふうに、呆気に取られた顔をしている。

「ごめん。今のは忘れて」

 場の雰囲気を取り繕うように、質問をなかったことにしようとしたが、少女は聞こえなかったように返答した。

「ここは魔王殿ですわ。あなたが一番よく御存知でしょう? 魔王殿の幽閉の塔」

 その地名に少年は酷くうろたえた。

 言葉の正確な意味は知らないが、漠然とした危険を感じる。

 とても大きな危険性を。

「魔王殿の、幽閉の塔。それって、なんだか凄く危険な場所のように聞こえるんだけど」

「そう、ですわ、ね」

 少女は歯切れの悪い同意を示す。

「どうしてそんな場所に僕たちいるんだい? それに……」

 最初に尋ねるべきことを、少年はこの時になってようやく思い付くに至った。

「それに君は誰なんだい?」

 少女は今までにないほど口を大きく開けた。

 こんな表情をするのは概ね二通りの心情の時。

 驚愕した時か、呆れ返った時。

 今の少女の反応がどちらによるものなのか、少年に判断はつかなかった。

 両方という気もする。

 どちらにせよ自分が物凄く間抜けな質問をしているのは間違いないような気がして、重ねて訊ねるのは憚られた。

 耳が痛くなるような静寂が過ぎ去り、少女はやっと口を動かしてくれた。

 それは今までとは違い、刺々しい口調が和らぎ、遠慮がちなものだった。

「あの、質問を質問で返すようで恐縮なのですけれども、あなたはご自分の名前を言えますか?」

 少年の頭が突然空白になった。

「僕は……」

 解答欄の埋めるべき言葉が見つからず、代わりに止め処のない疑問符が押し寄せる。

「僕は……」

 僕はどうしてこんな所にいる?

 僕はどうやってここへ来た?

 僕はいつからここにいる?

 僕の知っている人は?

 僕の家はどこに?

 僕の家族は?

「僕は……」

 頭を支配する無数の問いは、やがて恐怖へと変わる。

「僕は誰なんだ?」

 自分の名前がどうしても思い出せなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る