泡沫の記憶
『記憶は変わらない。故に結末はひとつ。
◇◇◇
目が覚めた。もう、シェラの言う「試練」はもう始まっているのだろうか。それは分からないが、ぼんやりとした頭の中、シェラが囁いた言葉には覚えがある。聖氷書の一節、賢者エィファーンが、降りしきる雪とフューリーに苦戦する最中、サラマンダーが彼を誘惑するのだ。炎の中に幻想を見せたサラマンダーはエィファーンを氷も雪もない夢の大地へ誘うが、彼は誘惑に屈さずに氷神の加護を得る。
目を開けるのでさえ億劫だったが、俺はそろそろと瞼を開いて周囲を見渡す。竜の言葉から察するに、これは俺の記憶を元にした世界なのだろう。一体どんな恐ろしい場所に飛ばされるのかと思ったが、自分は今上質なベッドの上だ。少し拍子抜け────
そこまで考えたところで、俺は遅まきながら気がついた。質の高さを感じさせるものの、極限まで物が置かれていない部屋。窓の外、弱くなった雪の合間から見える街並みと城壁。ここは。
城塞都市イヴェルアにあるエルドラド家の屋敷……さらに言うなら自分の部屋だ。
血の気が引いた。イヴェルアにいい思い出などひとつもない。急に鼓動が早くなって、俺は慌てて深く息を吸った。とはいえ、この先に待ち受けていることは相当厳しいに違いない。それを乗り越えないことには第三迷宮から脱出することは叶わない、が。
俺は本当にそれを望んでいるのだろうか。
瞬間、部屋の扉を強めに叩く音が俺を現実に引き戻した。誰かが起こしに来たに違いない。しかし、エルドラド家にいた頃の自分を考えると、正直誰にも会いたくない。
「エルラーン!もう、いつまで寝てるつもりなのー!」
頭が真っ白になった。
忘れもしない。忘れられるわけがない。口調こそ多少幼いものの、心を落ち着かせる優しい声。この家で、唯一俺の名前を呼ぶケット・シー。
気づけば俺は足をもつれさせながらも立ち上がり、勢いよく扉を開けた。目の前には驚いたように
「ア、アルト……?どう……して……」
「どうしてって……あなたがいつまでも寝てるから、起こしに来ただけだけど……どうしたの、顔色が悪いよ?今日は雪原に行くんだよね、大丈夫?」
「せつ……げん……」
俺の脳内に最悪な閃きが起こった。『いつまでも寝てるから起こしに来た』、『雪原』、そうだ。この記憶は。アルトを────殺した日の、朝。
猛烈な吐き気がせり上がってきて、俺は思わずその場にうずくまった。なんて悪趣味なんだ。まるでデウス・エクス・マキナ。これが試練だと?ふざけるのも大概にしてくれ!
「だ、大丈夫……!?今日は休んだ方がいいんじゃ……」
「……なんでもない。まだ……眠たくてさ」
「もう、しっかりしてよね!」
なんとか起き上がって返事をした俺に安心したのか、彼女は呆れたような顔で俺の肩を叩いた。
しかし俺はそれどころではなかった。アルトを。今度こそアルトを救わなければ。これが夢だろうと幻だろうと関係ない。救わなければ。救わなければ────
「じゃあ、頑張ってね!気をつけるんだよ?」
「ああ……」
俺は我に返って何とか返事をした。アルトはにっこり笑うと、元気に廊下を駆けていく。
……確かに彼女は美しい少女だったが。
あんな顔をしていただろうか?
◇◇◇
アルトを殺すような状況にならない為には、彼女がフューリーに襲われないようにすればいい。単純な事だ。その手前の段階で彼女を見つけて追い返すか、フューリーを撃退すればいいのだ。
「……スカーレット」
ぼそりと呟く。期待値は低かったが、俺との契約によって精神が繋がっているスカーレットであれば、竜の創ったであろう夢の世界に現れることができるかもしれない。
『……久しぶりだね?全く、いつまで待たせる気なのかと思ったよ』
果たして、一瞬の間を置いて苛立ったようなデウス・エクス・マキナの声が聞こえた。長い間放置されたことに苛立っているのだろうが、今はそれどころではない。
「……悪かった。でも今は、アルトを助けることが……」
『エルラーン』
凍りつくような気配だった。未だかつてないほど硬質な雰囲気を纏った彼女に圧倒される。いつもふざけたような物言いをする彼女らしからぬ真剣な声が脳内に響いた。
『《
あんまり私を、失望させないでね?
「スカーレット?」
謎めいた言葉を残したきり、彼女の気配が消える。名前を呼んでも、応える様子は一切ない。覚悟を問うとは一体なんだ?シェラは何を企んでいる?
完全にアルトに気を取られていた俺に、ようやく正常な思考が戻ってきた。「試練」を達成する方法すら分かっていないのだ。しかし、たとえ偽りでも二回目でも、アルトを見捨てることなど出来はしない。
久しぶりの雪原を歩いていると、少し身体に違和感を感じた。目線が僅かながらに低いような気がする。もしかすると、身体もあの頃に戻っているのかもしれない、大差はないが。
とにかく、アルトを見つけることが最優先だ。それさえすれば、彼女が傷つくこともないはず。意識を集中させ、これまでの経験則と熱源探知を使って周囲を見渡す────
「……アルト、そこにいるんだろう?」
「……バレちゃった?」
後方十五メラ程の岩の影から、アルトが気まずそうに出てくる。しかし、俺は言い知れようもない安堵を覚えた。大丈夫。これで大丈夫なはずだ。後は彼女を諭して屋敷に戻らせれば。
「危ないだろ、雪原に来たら」
「ごめん……でも、調子が悪そうだったから心配になって」
「それはありがたいけど、雪原は本当に危ないんだ。早く屋敷に戻って────」
ぐるる、と唸り声のようなものが聞こえた。俺は反射的に腰の短剣に手をかけ、周囲を冷静に見渡す。さらに後方十メラほど先、赤い目がこちらを睨めつけている。下級のフューリーだ。
恐らく、アルトはこのフューリーにやられたのだろう。過去の俺は碌に魔法を制御する事が出来ず、こんな下級のフューリーにすら苦戦して彼女を守れなかった。
でも、今は違う。
「アルト、下がって」
「う、うん……」
魔法の練習中であるアルトは、不安そうに俺の後ろに隠れた。
「
後ろも警戒しつつ、俺は短剣を抜いていつもの魔法を唱える。フューリーが足をたわませて飛びかかってくるが、それよりもこちらの方が圧倒的に早い。爆発的に広がった蒼炎が、獣の身体を完膚なきまでに焼き尽くす────
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