ノスタルジア

相原みー

ノスタルジア

 深夜三時の校内にいるのは、流石に僕と彼女の二人だけだった。

 だけど、リノリウムの床は不気味に非常灯の光を照らし、まるで見えない第三者の存在を思わせる。

 八月とはいえこの時間にもなればだいぶ冷え込むけれど、右前方を歩いている白い病院服の彼女はそれをものともしない風にずんずんと前を歩く。彼女の歩調に合わせて、肩から下げている黒のトートバッグも揺れた。

 僕達は目的の三階音楽室を目指している。この後者は空から見下ろすと「ロ」の字型をしていて、南中央の下駄箱から入って、目的の教室は北東三階にあるらしい。早く用を済ませて早く帰りたいのに、どうして一番時間のかかる位置にあるんだ。

 僕達は今、盗みを働くために深夜の学校に忍び込んでいる。

 と言っても、僕は彼女から音楽室に向かうのに付き合えとのお呼びを受けて付き添っているに過ぎず、立案者は彼女だ。何なら僕は音楽室に行って何を奪って来るのかも聞かされていない。

 こんな真夜中に女の子と二人きりというのは本来喜ぶべきなんだろうけど、することがすることなだけに、あるのは今後への不安だけだった。

 窓からは青白い月光が差し込んで、非常灯の灯りと混じり幻想的な色味を映し出している。彼女が歩く足元で群青色のオーロラが泳いでいるようだった。

「あのさ」

「何ですか」

 彼女は振り向かないままに僕へ返事をする。

「どうして僕を誘ったの?」

 それは、彼女から今日のことを聞かされてからずっと気になっていたことだった。僕がアルセーヌルパンに見えたのでもなければ、この計画に白羽の矢が立つ理由に思い至らない。

「誘う、とは」

「この学校に何かを盗みに来たんでしょう? それなら僕なんかより適任がいただろうに」

 僕はこの学校の生徒じゃない。だから彼女に案内されるまでこんな学校があったことすら知らなかったんだ。

 僕と彼女は病院で知り合った。お互いに入院中のところを抜け出したこともあって、彼女が病院服であるように、実は今僕も同じデザインの病院服に身を包んでいる。

 彼女のことは一年程前から知っていた。その頃から入院しているようだったし、僕と同程度には「末期」であることも聞いていた。

 とはいえ、同じ病院で長く生活しているというだけで、僕らには何の共通点もない。

 ましてやこうしてどこかに出掛けるなんてことも、ろくな会話をすることもなかった。

 そんな彼女が、ある日突然僕の部屋を訪ねて来た。そして、今晩の不法侵入の計画を話してきた。

 僕は彼女の背後をついて歩いて来るだけで良いと言われている。万一のことがあって途中で倒れたらどうにかして欲しい、と。

 でも、それならばもっと信頼の置ける人間に事を頼めば良いんじゃないか?

 そういう意味合いで彼女に訊いてみると、抑揚の少ない声音で回答が戻る。

「決まってるじゃないですか。将来有望なそこら辺の健康な人なんて、こんな話に乗ってくれるはずない」

「友達いないの?」

「いるはずないでしょう。この先長くない私と進んで親睦を深めようなんて近づいて来るのは、だいたいクラスで『そういうイベント』があったか、悲劇に酔いたい思春期を拗らせている人だけです。そんなの連れて来たって、仕方ないですから」

「ああ、わかる気がするね」

 それに。と彼女は続けた。

「途中で臆病風に吹かれそうになっても、私より弱々しい人を見ると、多少頑張ろうという気になりますからね」

「あっそ」

 一々そんなことに腹を立てるはずもなく、僕は大人しく彼女の背後を歩く。

 足音だけが反響する廊下で、しかしそれ以外に何も起こるはずもない。僕達は無事音楽室の前に着いた。彼女が部屋の扉の前に立ち止まるから、それに習って僕もその横に並ぶ。

 何気なく扉に手を伸ばしてみた。その扉はスライト式で、取っ手となる窪みに指を添えて力を入れてみても、ガタッという音と共に僅かに揺れただけで、開くことはない。鍵がかかっているんだ。

「どうする? 職員室に行けば鍵くらいはあると思うけど。あ、でも職員室も鍵がかかってるか……」

「鍵は必要ありません」

 いつの間にか彼女は僕の隣から少し離れた、音楽室の扉脇に置かれた飾り棚の前に移動していた。そのガラスケースはこれまでのこの学校が得た、入賞の盾やトロフィー、賞状がいくつも飾られていた。文化系の活動に力を入れて来たのか、僕が両手を伸ばしても足りない幅を持つ棚には、無数の受賞の証が置かれている。

 彼女は棚の前でしゃがみ込み、端から何かを探し始めているようだった。

 やがて中腰で三段目の段に視線を走らせていると「これです」と僕に一つのトロフィーを指差してみせた。大してトロフィーの造形に学があるわけでもない僕には、それは他の数ある物との区別がつかない。

 木製の台座に埋め込まれた金色のプレートを見ると「第23会合唱コンクール 雨原高等学校 優勝」と刻まれている。雨原高校とは、確か彼女から教えてもらったこの高校の名前だった筈だ。

「私、これが欲しいです」

「ああ、そう。じゃあさっさと取って帰ろう。あまり長居しても風邪引いちゃうしね」

 そう言いながら、僕はガラス戸に手をかける。

 しかし、というか案の定というか、やはりここにも鍵がかかっていた。まあ鍵穴のある鉄片が接続部にあったから、こんなことだろうとは思ったけど。

「で、どうする?」

「大丈夫です。ちゃんと用意してきましたから」

 鍵を?

 と僕が訊くより先に、彼女は手で棚から離れるようにと指示した。この後の展開が何となく読めて、大人しく後ろに下がる。

 さっきからずっと肩にかけていたトートバッグから、彼女は透明な瓶のようなものを取り出した。

 それはよく見ると花瓶で、一度だけ彼女の部屋を訪れたときにベッド脇の棚に飾られていたものだった。

「これ、一度だけお見舞いに来たクラスメイトが置いていったものなんです。でも一度しか来なかったから、もうしばらく花も生けてないし、良いかなって」

 何が良いかなんて、訊くまでもない。

 彼女はテニスでもするかのように、緩やかに振りかぶったそれを薄いガラス戸に叩きつけた。

 二、三度叩きつけても花瓶はヒビが入るだけで砕けたりはせず、彼女はそれを良いことにガラス戸に開けた穴を大きくしていった。そこから腕を突っ込み乱暴にトロフィーを引き抜いてトートバックに仕舞い「行きましょう。大丈夫とは思いますが、誰かに音を聞かれたかも知れません」と僕の腕を掴んで、花瓶の残骸をその場に置いていき、足早にその場を後にした。




   ※




「これ、去年の合唱コンクールの優勝トロフィーらしいんです」

 らしい、というのは彼女自身がそのコンクールに出ていなかったからだろう。去年のことなら、確かに彼女はもう入院していた筈だ。

 こんな夜中に警備員がいるはずもなく、僕らは無事に雨原高校を脱出し、病院への帰路についていた。どちらかというと、この後の病院への侵入の方が難しそうだ。見つかれば色んな人に怒られるだろうし。あそこの人達は余命僅かな僕らにだって容赦ないんだ。

「私、あの高校では合唱部に所属していたんです。今も名前だけ在籍しているんですけど、もう同じパートの人の名前も思い出せません」

「僕もそうだよ。今では家族の顔もおぼろげだ」

「ご家族、お見舞いに来ないんですか?」

「うん。別に来て欲しいとも思わないけどね」

「そうですか。やっぱり、あなたを誘った甲斐がありました」

 それは校内で聞いた「自分より可愛そうな人間がいることは励みになる理論」のことだろう。

「私、合唱部に思い入れがある訳じゃないんです。部活だって必ず一つには入らないといけないから、疲れない部活に入っただけで。結局、すぐに入院生活が始まったから関係ないんですけど」

 だから、あの学校で合唱部がコンクールに出たことはテレビで知ったんです。と彼女は言った。

「テレビって、病院の広間に置いてあるやつ?」

「ええ。あそこでトロフィーを持った部長が映ってましたよ」

「羨ましかった?」

「いいえ。ただ、腹立たしくはありましたね」

 ありがちな嫉妬ですよ、と自嘲気味に彼女は言った

「私は恐らく、もうすぐ今みたいに動き回ることも出来なくなって、人生の大半を病院のベッドで過ごすことになります。だけど、多分他の人達は私のことなんて忘れて幸せな人生を送るでしょう。それが不満なわけじゃないんです。ただ、いつか彼らが憎くて仕方なくなったときのための保険です」

「保険?」

「人生もう長くないけど、私は彼らに一矢報いたんだから、これでオアイコだって、納得するための保険です。いざその時になったら、私は文字通り手も足も出ないですからね」

 擦り傷でも良いから傷跡を残したかったんですよ。肩から掛けたハンドバッグを背負い直しながら、そう彼女は呟いた。

 もし僕がこの話を事前に聞いていたなら、手伝っただろうか。そんなことしても何にもならない、と断っていた?

 いや、多分結果は変わらなかったろう。むしろ、もう少しは協力的になっていたかも知れない。

 僕達みたいに何も持っていない人間は、こういう馬鹿げた行為に飢えてるんだ。

 クラスメイトと喋ったり、部活動で汗をかいたり。そんなことが出来ない僕らは、外野からそれに野次を飛ばすことくらいしか出来ない。

 それでも確かにその輝きに触れたくて、僕らは間違った方法で手を伸ばしている。

 確率的な偶然で世の理不尽の一端に触れてしまった僕らは、そのときに正しさなんてものは捨ててしまった。だから、選べるのは間違い方くらいだ。

「そのトロフィー、どうするの?」

「……ああ、そこまでは考えていませんでしたね」

 彼女はふと立ち止まって、手を顎に当てて考え込む。

 そんな様子に、それならさ、と僕は一つの提案をしてみた。

「それ、僕にくれない? 今日のバイト代ってことでさ」

「良いですが……」

 腑に落ちない表情ながらも、彼女はトートバッグごとそれを僕に渡してくれた。

「こんなもの持っててどうするんですか?」

「君と同じだよ。いつか来る日のために、思い出を作っておくんだ」

 それを受け取り、肩にかける。

「これに、あなたは何の思い入れもないでしょう?」

「そうでもないさ」

 僕は今後彼女と関わることもないだろう。でも、きっといつか彼女のことを思い出す。

 友達になれていたかも知れない人達を恨まないようにと、こんな夜中に出張った、優しい彼女。

 そんな彼女は、きっと僕なんかよりも「可愛そう」で。

 もしかしたら彼女とは友達になれたかも知れないと、そんな夢を見れるかも知れないから。

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ノスタルジア 相原みー @miiaihara

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