3歳5月 日本ダービー
「おおっと、いきなりヒガシノゲンブが逃げた!それも三馬身、四馬身、いや七馬身近く開いて行きます!」
これまでのレースで見た事もない様なレースぶり。競馬場全体がざわつく。
これまでのヒガシノゲンブは、中段から直線飛び出して勝つような馬だった。それをまったく投げ捨てて、こんなレースをやっている。
無茶だ。絶対に止まる。何のつもりだ。ぼくを含め全員が、そう思ったはずだ。
一勝を挙げたばかりの馬ですらダメだとわかるようなやり方が、ダービーに出るような馬に通じる訳がない。そりゃ絶対的な能力が違っているのならば話は別だけど、前走十三着の八番人気の馬にそんな力がある訳がない。でなければ、本来逃げ馬としてレースを引っ張って行く予定だったナンダカイケソウが二番手にとどまっているはずはない。ましてや二番なんて言う逃げるには絶好の枠を引いたのに、それで皐月賞で五着に入った馬なのに。
顔は遠すぎて見えなかったけど、たぶんヒガシノゲンブはとんでもなく恐ろしい顔をしていたんだろう。あの時の声を出すのにふさわしいような。その顔ににらまれた馬たちは、たぶん競り合うのをとっととやめて止まるのを待とうとしたと言う訳だ。
そしてヒガシノゲンブは、そのまま直線に入った。ダートコースよりも長い直線、この直線で時は来たれりとばかりみんなムチを入れられる。
この時、たぶん他の17頭の目にたぶんヒガシノゲンブは映っていなかった。
すぐさま消えて行くだけの存在。そんな事より他の馬だ、それよりゴールだ。みんなそう思っていたはずだ。でなければ、みんなついて行っていただろうから。
でも現実って言うのは、何よりも恐ろしかった。直線が来た、さあこれからだと言わんばかりに仕掛けたはずの精鋭たちは、誰もヒガシノゲンブに追い付けない。
ピストルから撃ち出された真っ黒な弾丸を、先走りする黒ウサギのようにしか思っていなかったぼくらは、そのしっぺ返しを喰らわされる事になった訳である。
「残り100、まだ詰まらない!まだ詰まらない!ヒガシノゲンブ、ヒガシノゲンブ!!なんとなんと、ヒガシノゲンブがそのまま逃げ切った!何という恐ろしいレースだ!」
沈黙だけがその場を支配した。皐月賞に続きあらためて1番人気だったワンダープログラムは8番人気のヒガシノゲンブから1秒ちょうど引き離され、皐月賞馬はその0.2秒後ろの3着。
1秒差ってのは、その前にぼくが走ったレースの1着馬と10着馬の差と同じ。
それぐらいの大きな差を、精鋭のはずの17頭はヒガシノゲンブに付けられた。シンガリ負けしたナンダカイケソウに至っては、4秒差。まったくの手合い違いと言わんばかりの結果だった。
「ハハハハハハ……ギャーハッハッハッハ!!ギャーハッハッハッハ…………」
ダービー馬が立つ栄光のウイナーズサークルから、ヒガシノゲンブの笑い声が振り撒かれる。その笑い声はこの東京競馬場にいたすべての人馬の心をわしづかみにして地面に叩き付けた。こんなに恐ろしい勝利の高笑いをしたダービー馬と言うのが過去にいるのだろうか。
ぼくはダービー馬と言うのを他に見ていないけど、彼が歴代の中でももっともとんでもないそれである事ぐらいはわかる。その笑い声にぼくを含む誰もが心を逆撫でられ、だがそれ以上に恐怖心が強く沸き上がり口を塞がれた。
2着になった滝原さんはもう梅雨が間近のはずだって言うのに寒そうに震えながら頭を振り、ヒガシノゲンブの方を見まいとしていた。まるでレースの時のように全方向に戦いを仕掛け、そしてその戦いの勝利を自画自賛するかのような笑い声。その笑い声が東京競馬場を包み、全てを支配した。
まあどんなに屁理屈を並べ立てようが、彼はダービー馬と言う名の世代代表であり後の馬はそれに勝てなかった存在に過ぎない。他の馬は、もはや彼に口出しをする権利を失ってしまっていた。
もし競馬の神様って物がいるとすれば、17頭のサラブレッドをヒガシノゲンブの引き立て役と言う名のいけにえにささげてこんな絵図面を考えたのかもしれない。本当に、競馬の神様って奴は気まぐれで恐ろしいもんだ。
「お前さぁ……」
「あれがお子ちゃまだって言うのか?」
「あの金髪女はさぞすんげえ大人なんだろうなぁ、ここに出てれば2秒ぐらいあいつをぶっちぎれるんだろ?」
「彼女に今回の事は関係ないだろ」
「おいおいワンダープログラム、こちとらあの嬢ちゃんが首尾一貫してるか確かめに来ただけなんだぜ?」
そしてそのいけにえにされた17頭のうち大半の馬は、また別のいけにえを求めていた。
その名はユアアクトレスだ。詳しくは知らないが皐月賞の後こっぴどくヒガシノゲンブを振ったその馬を、みんなはヒガシノゲンブに火を付けた戦犯だと判断した。
あの女が余計な事を言ったせいで彼は目を覚ましてしまったんだぞ、その責任をどうしてくれるんだと。
「負けたのは単に僕らが弱かったからだよ、以上!」
弱いから負けた、強いから勝った。そんな単純極まる理屈だけど、それも真理だ。その真理に半ば強引にねじ伏せられたいけにえたちは、ワンダープログラムの唱える真理からすれば全く関係のない相手への恨み節を吐き続けながら競馬場を去って行った。
彼らにとってのダービーが悔しいだけでなく楽しくない思い出になってしまったのかと思うと、ぼくは少しだけ同情した。ヒガシノゲンブの笑い声の対象でない事に感謝しながら、ひとりで東京競馬場にやって来たぼくはワンダープログラムと同じ馬運車に乗っかった。
「ワンダープログラム」
「菊花賞は取るよ」
ワンダープログラムは、それ以上の言葉を発する事はなかった。その決意の簡潔さ、あそこまでの差を付けられてもなお闘志を失わない姿勢は、是非とも見習うべき物だと思う。出来るかどうかは別問題として。
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