責任の取り方

@wizard-T

第一部

3歳5月 ダービーの日

 日本ダービー。ぼくら競走馬にとってあこがれの舞台だ。ダービーの日に一年が終わり、次の日から一年が始まると言われるぐらい大事な日だ。


「まずはワンダープログラムとヒガシノゲンブだ!」


 このぼく・ココロノダイチも、ものすごく楽しみだった。その日東京競馬場に行くことになったぼくは、ダービーに出る訳でもないのに無邪気にはしゃぎ回っておしかりをもらってしまった。


 そんな浮かれ上がったぼくを後回しにして、うちの厩舎からダービーに出る馬が馬運車へと乗せられて行く。

 ぼくはまだ一勝もできなくて、ダービーよりずっと格下の未勝利戦に出るだけの存在だったけれど、それでもダービーと言う行事が行われるのと同じ空間にいられると言うのはうれしかった。




 ぼくの厩舎は、大きくて強い。ダービーだけじゃなく、桜花賞にもオークスにも、皐月賞馬にも有力馬を出している。

 どれも勝てなかったけど、いずれにせよそういうレースに有力馬を送り出せるってのはすごい事だ。

 ワンダープログラムの背中は、すごく大きかった。ぼくとそんなに背も体重も変わらないはずなのに、背はまっすぐでお尻も引き締まっている。そして全く厩務員さんの手をわずらわせる事もなく、ありふれているはずの鹿毛を輝かせながら歩いて行く。ぼくと同じ毛色とは思えないその存在は、紛れもなく羨望の的だった。



「おいおい落ち着けよ」


 一方で、黒鹿毛をしたヒガシノゲンブは調教助手さんの制止なんか言う事も聞かずに荒い鼻息を立てながら首を振りまくっている。日本ダービーに出られるとなれば興奮するのも当たり前だろう、と言うのはちょっとおかしい。

 ぼくの目の前にいたのは、サラブレッドと言う姿をしたなんか別の生き物みたいだった。例えるならば虎とかライオンとかそういう類の、いわゆる肉食獣。


「おいヒガシノゲンブ!ワンダープログラムはとっくに、ああああまたチャカついてる!」


 いくら調教助手さん達が抑え込んでも全く言う事を聞かないヒガシノゲンブと言う名前の、真っ黒な肉食獣は360度に向けてケンカを売り続け、だんだんと周囲に不愉快をまき散らした。

 闘志があふれているのはいいけど、まだ出すには早いはずだ。首を振り回り、むやみやたらに暴れまくる。


「ウウウウ……」


 それを数分かけてようやく鎮めたかと思いきや、今度は口からとんでもない声が漏れ出した。

 うめき声にもうなり声にも似ていない、もっと恐ろしい声。

 その声は、たぶん永遠に忘れられない気がする。耳に入っていただけのぼくでさえ忘れられないんだから、調教助手の人たちはなおさらだっただろう。そういう慣れているはずの人たちさえも少し震え、必死になだめようとしたけど時間ばかりが過ぎ、結局声を止められないまま馬運車に押し込まれて行った。ドアが閉まってもなお声が響いて残っているような感覚がして、足が少しだけすくんでしまった。




 ヒガシノゲンブと、ワンダープログラム。このふたりは、どっちも皐月賞にも出ていた。何千何百頭分の18頭の枠を二度も勝ち取れていた。俺やお前とは生まれが違うんだよ、ぼくに対してこんな言葉を寄越して来たひともいた。



 セレクトセールと言う物がある。競走馬のセリのような物だ。ぼくはそこで、700万円の値段が付けられた。

 そしてふたりが出走した皐月賞の1着賞金は、1億1000万円。でもふたりとも、これを勝っていたとしても馬主さんが購入した金額には足りていなかった。ワンダープログラムに至っては、2回勝っても足りなかったと言う。

 そう考えると、まったく羨ましくない。ふたりとも母親はGⅠ馬だ、それがこの価格に貢献しているとしたら母親の成績ってのも購入額と同じように良し悪しなんだろう。




 そのふたりの皐月賞の結果は、6着と13着。結果、5着に入ったナンダカイケソウって馬にめちゃくちゃあおられた。


「オイオイオイオイ、オレなんかに負けてどうするんだ?こんな調子でダービーは大丈夫なのかねえ」


 その日一緒に中山競馬場にいてレースに出ていたぼくは、ふたりの顔をはっきりと見ていた。

 片方は歯噛みし、片方は泣き顔になっていた。人間だって、そんな顔をしていた人は多かった。調教師の浅野先生や、ふたりに乗っていた滝原さんと戸柱さん。それからファンの人たち。

 GⅠレースってのは、ぼくが走っているような小さなレースとはぜんぜん違う。賞金も、馬券を買う人の数も。そんな場所で1番人気と、3番人気になる事。それだけ多くの人間に支持される事。

 その人たちの怒り、悲しみ、悔しさ。それから、恨み、辛み。それだけ多くの物をふたりはたった一度のレースで背負わされた。

 そのせいなのか、あれからワンダープログラムはすっかり無口になり、レース以外の事を口にしなくなった。




「ココロノダイチ、一緒に空でも見ないか」

「いいの」

「いいんだよ、同じ厩舎の仲間だろ」

「ちょっとあんた何よ」


 今年のお正月、すでに重賞勝ち馬だったワンダープログラムは未勝利馬のぼくにそう声をかけてくれた。既に厩舎の看板になっていた存在に声をかけてもらえると言う事自体、ぼくには信じられなかった。

 そんでそのぼくに対して突っかかって来たのがユアアクトレスさんってメスの馬だ。お正月の時に既に2勝していて、その後フィリーズレビューってGⅡレースを勝った馬には、ぼくがとてもひいきされているように見えたらしい。


「同じ厩舎の仲間だから、それだけじゃダメ?何ならキミも一緒にどうだい」


 ユアアクトレスさんが尾花栗毛と言う金色の毛を振り乱し口をへの字に曲げる中、ワンダープログラムはぼくを導くように歩いてくれた。大牧場で、優雅に大事に育てられるとこうなるのかって感じの歩き方。

 やっぱり住む世界が違うんだ、その事をごく自然に感じさせて来る。優しくて、それでいて強くて責任感のある足取り。ものすごくまぶしくて、強くて、頼りたくなる。それがワンダープログラムだった。



 でもあの皐月賞の後、ワンダープログラムは変わってしまった。まるで、自分が一個の武器になったような感じ。サラブレッドの本業である、どうやって早く走るかと言う事だけに全神経を注ぐようになって行った。

 ぼくは無論、ユアアクトレスさんがどんなに親しそうに話しかけてもあまり口を開かない。ユアアクトレスさんに言わせれば無口でカッコいいとなるらしいけど、ぼくにはしっくり来ない。




 一方でヒガシノゲンブは、変わらなかった。ワンダープログラムと同じように優しくて余裕があった男の子、その余裕のままきさらぎ賞なんてのを勝ってしまった男の子のまんま、落ち込んでいた。こんな調子でダービーは大丈夫なのかとぼくに思わせてしまうぐらいには落ち込んでいた。

 そのはずだったのに、さっきヒガシノゲンブのが出した声は、ぼくらの知っているそれじゃなくなっていた。ワンダープログラムともぜんぜん違う、馬体よりもっと黒くて恐ろしい何か。ヒガシノゲンブは別馬べつじんになってしまったと言う事だけは間違いない、ワンダープログラムはほぼそのままで強くなったっぽいってのに。

 ぼくの完成形って奴がどんなになるなのかはわからない。でもそれがワンダープログラムであったとしても、ヒガシノゲンブでない事だけはわかる。戸柱さんの言う事をきちんと聞いて、ちゃんと中団におとなしく構え直線で抜け出す。それをぼくはずっと続けて来た。


 それが急に、ヒガシノゲンブのように走るかなり前からあんな恐ろしい存在になる事ができるだろうか?一体何がどうすればああなれるのか、ぼくには及びもつかなかった。







 もう一つ及びもつかなかった物と言えば、勝利の感触って言う物だ。


 ワンダープログラムやヒガシノゲンブのおかげさまでとか言うつもりもないけど、ようやくぼくは初めて一着と言う地位を手に入れる事ができた。もしあと三ヶ月以内に未勝利戦を勝たなければ地方競馬に送られるか、既に勝った事のある馬と一緒に走るか、さもなくば引退のどれかになる所だった。

 いずれにせよ、こんな華やかな舞台で走る事はまずできない。ふたりともお別れしなければならなくなる。

 とにかくこれで少しは自分の競走寿命も延びた事を実感すると同時に、自分が危機にあった事を実感した結果、今が初夏だって事を一瞬忘れてしまった。もっとも、ぼくには一大事でもワンダープログラムやヒガシノゲンブにとってはどうでもいい事だ。今のぼくにできるのは、その自己満足を元手に仲間面する事ぐらいだ。




 やがて時が来た。ダービーのファンファーレが鳴る。

 ぼくが先ほど走った未勝利クラスのレースとは、曲も楽団の規模も違う。何もかも、何もかもが特別な場だと言う事がわかる。

 不思議な緊張感が、見ているだけのぼくらにも伝わって来る。ひとシーズンが今日終わり、明日始まると浅野先生は言っていた。

 誰もがみんな、この時のために全てを注ぎ込んで来た。レースも、調教も、プライベートも。まさしく頂点を決めるための戦い、その前に立ち込める厳かな空気が、雲ひとつない晴天をなんだか重たくしていた。




 そしてその重たい空気は、ほんの一瞬でぶち壊しになった。



「おおっと、いきなりヒガシノゲンブが逃げた!それも3馬身、4馬身、いや7馬身近く開いて行きます!」

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