4歳4月 産経大阪杯-2
厩舎に帰って来た浅野先生の顔を直視する勇気は、ぼくにはなかった。それから、滝原さんの顔も。
二人がこれまでずっと積み上げてきたやり方、積み上げて来たキャリアはわずか二分ちょっとでまったくぶち壊しになった。四方八方、いやそれこそ十六方三十二方から罵声が飛び交った。
罵声でなければ、疑問の声。
疑問の声でなければ、泣き声。
泣き声でもなければ、馬券を的中させた喜びの声。
勝ち馬を褒めたたえる声は、それらのどれよりも小さかった。これじゃあ、誰も報われない。GⅠという枕詞以上にまったく遠いレースになってしまった。
「あんな走り方では絶対に脚を壊す、そう思っているからこそ強引にでも控えさせようとしたんですが……僕にはもう何もできないって事なんですかね……」
滝原さんは、もう顔も上げられないほどに落ち込んでいた。
浅野先生だってそうだった。戸柱さんがしたようにさせようと考えなかったんですかと言うマスコミの人たちの追及に対して、浅野先生は滝原さんとほとんど同じ事を言っていた。
「いつからそう思っていたんです」
「菊花賞です、あの時スタートとほぼ同時にずっと心音が脳内に響き渡ってもう無事にゴールしてくれとしか言えなくなってしまって、その日はなかなか寝付けませんでして……あの後祝杯と偽ってボトルを三本空けてしまいました……」
「それはすなわち戸柱騎手が乗っていたとしても」
「そうです。ご存知の通りあの後ヒガシノゲンブは故障してしまい、悪い予感が当たってしまったと思ってずっと……」
浅野先生は菊花賞の時笑っているように見えた、でもそれは引きつっているだけだったと言うのか。
あの笑い声を聞きながらそれに飲まれずに自我を保ち続けて、そしてその結果こんな事になってしまったと言うのか。
滝原さんだってライバル馬の騎手と言う立場からヒガシノゲンブを見て同じ危うさを感じ、同じように処置を施そうとした。2人が一緒になって、それこそ全力で行動を起こしに行ったと言う事だ。
春分の日はとっくに終わっていることもあり、メインレースが終わった午後四時過ぎだと言うのに外は明るかった。まるで、二ヶ所に当たるべき日光を節約したかのように。
ヒガシノゲンブは、ただただ無言で歩くばかりだった。そこにいたのは文字通りただの黒鹿毛の馬であり、ダービーの時の肉食獣ではなかった。そのただの馬にまともに声をかけられるような存在など誰もいない。
「最悪の二人相撲」
「角を矯めて亀を殺す」
「浅野調教師、酒で自分の馬の栄光から逃げる」
ああ、ひどい見出しだ。
大阪杯の次の日、スポーツ新聞にはこんな言葉がずらりと並んでいた。中身も中身で、二人がヒガシノゲンブの魅力をまったくスポイルしてしまうかのようなやり方を意気揚々と行ったのだと言わんばかりに書かれている。勝ち馬の記事より大きいぐらいだ。いずれにせよ、二人に貼り付けられた往生際の悪い人たちと言う烙印を消す方法はもうないだろう。自業自得とか言うにはあまりにも辛い。
あるいは二人とも、どうにかしてあの狂気の塊を鎮めようとしたのかもしれない。
あの一度聴いたら二度と忘れないような笑い声におびえる馬が出たのは間違いない事実だし、ヒガシノゲンブと言う存在を大事に思う身としてはあんな万人に恐怖を与えるような存在になって欲しくないと言うのは当然だろう。
その実験は、成功した。成功したのだ、確かに。
菊花賞の時一着だった着順が、十三着になった事に目をつぶるのであれば――。
「浅野先生」
「ああ、ココロノダイチか。疲労もさほどないようだし次走は予定通り京都だ、その時は頼むぞ……」
浅野先生と滝原さんは、自分なりの大勝負に失敗した。九十九.九%とまでは行かないけど、九十五%以上の存在にして来た事と同じ事をしただけのつもりだったはずだ。現にぼくは、その先生のやり方で徐々に成績を上げている。
次は勝てる、オープン馬になれるとさえうぬぼれられている。しかしそういう自信をぼくに投げて寄越してくれた浅野先生は今ここにいなかった。
「天才を凡百の存在のように扱ったからでしょ」
ユアアクトレスはそう簡単に片付けたけど、ヒガシノゲンブははたして天才なんだろうか。そしてヒガシノゲンブが天才ならば、ワンダープログラムはどうなんだろうか。
もし天才ってのがこれまでの全てをひっくり返すような存在ならば、ヒガシノゲンブは間違いなく天才だろう。
でも、ワンダープログラムは絶対に違う。
予想通りに調教を行い、馬運車に運ばれる時も実におとなしく、レースでは予想通りのパフォーマンスをする。それ以上の事は何もしない。
「ココロノダイチ、千頭いれば千通りの方法がある。絶対的な正解なんて存在しない。僕だってもう少し強くならねばならない、何せ僕はまだ弱いんだから。次はおそらく天皇賞だ、そこでヒガシノゲンブもまた来るだろう。今度は勝つ、勝たねばならない、負かさなければならない」
「そうよね、頑張ってワンダープログラム」
「有馬記念と同じく今度も帯同する事になりそうなんでよろしく」
「ああ、頼むぞ」
このぼくらの厩舎のみならず競馬界を揺るがす一件にも、何にも面白みのない普通の答えを返すだけ。表情を崩す事はしない。
まだぼくが二歳だった頃、既にスター候補としてもてはやされていたワンダープログラムは気さくに声をかけてくれた。併せ馬にも誘われた。一緒に走っていて楽しかったし、カッコよかった。
でも今のワンダープログラムは、そのかけらすら見せてくれない。長々と正論を述べ続け、そのまま自分に流れに持ち込もうとする存在になっていた。そこにはぼくの入る隙間もなければ、おそらくユアアクトレスの入る隙間もない。
それでもまだ生きる世界が違うんだと言う事を実感するには、あまりにもワンダープログラムの盟友にしてライバルであるはずの、ヒガシノゲンブと言う存在はぼくに近すぎた。その近すぎる存在がああなってしまったのは、一体誰の責任なんだろうか。
その問いにこの馬は答えてくれないことが、ぼくには簡単にわかった。
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