Letters ~郵便配達人の恋~

多田 洋介

第1話 楽師と花屋と郵便屋

一面藍色の空の東の端に薄紫色の雲が滲むように浮かんで、やがてほんのりとしたピンク色がゆっくりと空を染めていきます。

薄い雲の隙間から広がる暖かい光は、灰色のベールに覆われた街の教会の屋根を滑り降り、煉瓦造りの家々の間から石畳の路地を駆け抜け、広場の噴水に溶け合わさって七色の結晶に変わります。

郵便配達人のピートは、小高い丘の上に建つアパートの窓から見える、朝の街の景色が好きでした。

「それじゃ、行ってくるよ。リリー」

ピートは窓辺に置いてあるスパティフィラムの花に出かけの挨拶をすると、よく使い込まれた革製の郵便鞄を肩に掛け、静かに玄関の扉を開きます。短い廊下を突きあたりまで進んで、ちょっとのことでギシギシと不機嫌な声を上げる古い階段を、塗料の剥げた手すりに手を滑らせながら、音をたてないように慎重に下りていきます。

小窓のある踊場を回ると、階下に見える真鍮の取っ手の付いた木製の扉の奥から、強烈ないびきが聞こえます。階下の住人はまだ夢の世界を旅行しているようです。

「ここに住んで随分経つけど、一度も顔を見たことがないな」

ピートは寝ぼすけの住人の顔を勝手に想像しながら、忍び足で扉の前を通り過ぎます。地鳴りのように大きな低い音は、ピートの背中をアパートの玄関まで追いかけてきます。玄関の扉のノブに手をかけると、色ガラスの窓に染められた朝日がピートの顔に当たります。

「さあ、新しい一日の始まりだ。今日もきっと忙しくなるぞ」

ピートは朝日を浴びた体に冷たい空気を大きく吸い込むと、よく整備されている自転車に跨り、アパートの前の長い坂道を駆け下りていきます。


「遅いぞ、何をモタモタやってるんだ。一便の荷物はすでに入ってるんだぞ」

木箱や封筒の束が所狭しと積み重なっている倉庫に野太い声が響きます。苦虫を噛み潰したような顔をした郵便局長が、大きな体と口髭を揺らしながら荷物の山の間を熊のような足取りで練り歩き、動きの鈍い局員を見つけては積もれた荷物が雪崩を起こしかねない程の大声で怒鳴りつけます。

「お前たち、まだ寝ぼけているのか。急げ、急げ。昼前には二便がきちまうぞ」

皆同じ萌木色の制服に金の刺繍の入った郵便帽を被った局員達は、局長に目をつけられぬよう慌ただしく動き回りながら、それぞれが担当する地区の荷物を自転車の荷台に積んでいきます。

「おい、ピート。お前の担当は中央広場の1から6区だ。そこの山を今日の内に片付けろよ」

局長の指差す先にはピートの背丈より高い荷物の山が積み上げられています。ピートは積み重なる荷物の宛先を手早く読み取り、頭の中に最短の配達ルートを組み立てると、載せられるだけの荷物を片っ端から荷台に積み上げていきます。

「さあ行け、やれ行け、どんどん運べ」

局長の大声に追い立てられて、配達カゴをいっぱいにした自転車達が郵便局の屋根から一斉に飛び出していきます


澄まし顔の太陽が空のドームの天辺に登ろうとする頃、ピートは街の中心に位置する広場にやってきます。広場の中央には水の女神をモチーフにした噴水があり、抱えた水瓶からは清んだ水がこうこうと溢れだし、陽の光を様々な角度に反射させながら女神のベールを伝って足元の池に落ちています。噴水のへりの石垣には十二星座のレリーフが刻まれています。

女神の噴水の周りでは、石垣に腰を下ろしてあくびをしている老人や、談笑する婦人達、池の水に手を浸して遊ぶ子供、多くの人達が柔らかく降り注ぐ日差しを楽しんでいます。その中に一層賑やかな一団があります。楽師とコーラス隊の一団です。

4人の楽師達はえんじ色の生地に金、銀の刺繍の入った衣装を身にまとい、てかてかに磨かれた革製のブーツの踵を石畳に打ちつけてリズムを取りながら、それぞれ手にしている楽器を慣れた手つきで演奏しています。3人の若い娘のコーラス隊は、短めの丈のドレスからすらりと伸びた長い手足を、調子の早い曲に合わせて振りながら、聴衆の間をステップを踏んで回っています。

街の広場では市場が開かれ、大小様々なテントの下には甘い香りのフルーツ、赤や黄色の可愛らしい花達、水玉や縞模様の洋服や光沢のある革靴など、様々な商品が手狭に並べられていて、その間を買い物客と店主の威勢の良い掛け声が飛び交っています。

ピートは噴水の脇に自転車を止めると、広場に集まる人達の間をすり抜けながら、市場や広場を囲むようにして建つ商店に荷物を配って回ります。

「それにしたって、今日は荷物が多いな。さぁ、ふんばれ。これが最後の配達だ」

最後の荷物を下ろすためピートが荷台に手を伸ばした時、不意に何かに背中を押されます。

「わ、わ」

バランスを崩したピートの腕が当たり、荷物が荷台から滑り落ちます。

「あ、あ、危ない」

ピートは前のめりにつまずいて、自転車を押し倒しながらも、とっさに手を伸ばして荷物を掴まえようとします。

ピンクのリボンで包装された可愛らしい荷物は、ピートの手の上で二度ステップを踏んだ後、すっぽりと手の中に収まります。

「おっと、こいつは失礼。なんだ、郵便屋じゃないか」

浮ついた声にピートが振り返ると、襟元にフリルをつけたシャツにえんじ色のベストを被せた長身の楽師隊の男が、高い位置からピートを見下ろしています。

「おい、気を付けろよ。大事な荷物に傷が付くところだったじゃないか」

「はっはー、そんなにカッカするな、郵便屋」

楽師の男はピートを値踏みするように見回すと、日に焼けた顔をニヤつかせながら軽い調子で言葉を返します。

「こんな良い陽気の日に仕事なんかしている奴が悪い。俺の故郷じゃ、こんな日は誰も働かないぜ。そんなことよりだ。俺様宛に手紙はないのか、郵便屋」

長身の楽師はそう言うと、長い腕を伸ばしてピートの肩から郵便鞄を取り上げます。

「来てるはずだ、勿体ぶるなよ。俺様宛のラブレターが山程あるはずだ」

「おい、止めろ。鞄を返すんだ」

長身の楽師はピートの抗議など意にも介さず、郵便鞄の中から手紙の束を取り出し始めます。

「何て事をするんだ。人の手紙を勝手に覗くなんて。郵便法違反だ、犯罪なんだぞ」

ピートは顔を熟れきったトマトのように真っ赤にして、鞄を取り返そうと手を伸ばしますが、長身の楽師はむしろそんなピートの反応を面白がっている様子で、ひらりひらりと踊るようにピートの手をかわします。

「はっはー、えらい堅物だな、郵便屋。俺の故郷じゃ、お前みたいな奴を〝目のないサイコロ〟って呼ぶんだ。四面四角で面白味がないって意味さ。もっと人生を楽しんだらどうだ」

「余計なお世話だ、こいつめ。鞄を返せ」

長身の楽師は郵便鞄を闘牛士のマントのようにひらつかせて、突進してくるピートを寸前でくるりと避けて見せます。楽師が靴の踵を打ち鳴らしながら滑稽な仕草でピートをかわす度、集まった群衆から歓声が上がります。衆人の視線が自分に集まっている事にすっかり気を良くした楽師は、さらに芝居がかった仕草でピートをからかいます。

「どれ、それじゃ一つ、バンジョーの天才トニオ様がこの目のないサイコロに人生の楽しみ方を教えてやろう」

トニオと名乗った楽師はピートに鞄を投げ返して、噴水の縁に置いていた細長い首に丸いお皿がついたような楽器を手に取ると、ピューイと指笛を吹いて声高らかに歌い始めます。

「ヨーレ、オレオレオ」

トニオの指笛を合図に、他の楽師やコーラスガール達があっという間にピートの周りを取り囲み、一斉に楽器を演奏し始めます。調子を上げたトニオは、ピートには名前も分からないその弦楽器を激しく鳴り響かせながら、軽やかなステップでコーラスガールと息の合ったダンスを披露します。

これには集まっていた音楽好きの群衆達もいてもたってもいられなくなり、思い思いの相手と手を取り合って、陽気な曲に合わせて踊り始めます。瞬く間に広がっていくダンスの輪の中で、ただ一人、周りの雰囲気についていけずに目を白黒させて突っ立っているだけのピートを、コーラスガール達が強引に踊りの輪の中に連れ出します。

「止めてくれ。僕はダンスなんて踊ったことないんだ」

ピートは必死になって叫びますが、ダンスのパートナーは次から次へと入れ替わり、その度にピートの身体はくるりくるりと振り回されます。そうしている間にも、噴水の周りには人が押し寄せてきて、広場はすっかりダンスパーティーの会場となっています。

天地も分からなくなる程に踊り回らされた後、やっとのことでダンスの輪から抜け出したピートの背中に、トニオのよく通る高い声が降りかかります。

「じゃあな、郵便屋。明日は俺宛のラブレターをたんまり持ってこいよ」

ピートはもう怒る気力も起こらずに、ふらふらした足取りで逃げるように噴水から離れて行きました。


祭りのような喧騒の広場を離れ、アーチ状になっている建物をくぐり、両脇に住宅が建ち並ぶ細い路地を進んで行くと、大きなナラの木が一本植えてある小さな公園にあたります。四方を建物に囲まれ中庭のようになっている公園には、ゆったりとした午後の日差しが降り注いで、まるでこの場所だけ時間が止まっているかのような静けさに満ちています。

噴水広場からピートの頭の中に鳴り響いていた雑音も、波が引くように消えていき、熱の冷めた耳に微かな旋律だけが残ります。残響と間違う程にか細いその旋律は、歩みを進める毎に鮮明になり、公園を渡りきる頃には歌声に変わります。

ピートの目に年期の入った木製の釣り看板が映ります。看板には古い書体でフローリスト・ベルと書かれています。釣り看板の下がっている軒から緑と白のストライプのシェードが伸びており、シェードの下には赤、黄、水色の花達が白磁の鉢や藤籠に添えられて、白木の棚に整然と並べられています。

花棚の前には、薄いピンク色のつばの広い帽子を被った女性が、真白いワンピースから伸びた細い手をジョウロに添え、澄まして並ぶ花達にひとつひとつ丁寧に水を差して回っています。その女性が鉢の前をひとつ動く度に長丈のスカートが午後の日差しで白く光り、生気に満たされた花達は葉の上に残る水玉を輝かせて見せます。

ピートが辿ってきた旋律は、薄く開かれた彼女の形の良い唇から漏れているものでした。

午後の光、陽の暖かさ、花の香り、歌声。

もし、この世界に調和と呼ぶものがあるとするなら、ピートは今それを目にしています。ピートは掛けようとした言葉が喉のところでソーダ水の泡のように消えていくのを感じました。

「何をぼけっと突っ立っておる」

不意に後ろから浴びせられた声に、ピートは心臓が止まるかという程に驚いて、手にしていた郵便の包みを落としてしまいます。振り向いたピートの前に、立派な口髭を蓄えたエプロン姿の老人が、いかにも怪しいものを見るかのような険しい顔でピートを見上げています。

「何も見ていませんよ、グラントさん。きょ、今日の配達分です」

ピートは落としてしまった郵便物を大慌てでかき集めて、グラント氏と呼んだ花屋の主人の前に差し出します。花屋の主人は郵便物を受け取ると、何かを疑うような目つきで冷や汗をかいているピートの顔を覗きこみます。

ピートはいたずらを叱られた子供のような気持ちで、それでも引きつった顔を精一杯歪めて笑顔を返します。花屋の主人はまだ不満そうにフンとひとつ鼻を鳴らすと、踵を返して店の中に下がっていきます。店の主人の姿がカウンターの奥へと消えるのを見送ってから、ピートは大きくため息をつきます。

「ふぅ、まったく今日は何て日だ」

うっかりそう呟きながら公園の方を振り返ったピートの目が、大きな鳶色の瞳と合います。先程の娘が何か言いたげに長丈のスカートを握りしめながら、真っ直ぐに見つめて立っているのです。

ピートの心臓は今度こそ止まりました。

「あの、郵便屋さん」

「は、はい。何でしょうか。お嬢さん」

ピートは硬直した表情筋を無理やり動かして、ぎこちない笑顔を作ります。

「あ、あの、配達品の中に私宛の、ベル宛のものはなかったでしょうか」

花屋の娘がためらいがちに尋ねる言葉の端に、特別な思いがあることを感じ取ったピートは、カチカチに固まった頭を全力で回転させ、本日分の花屋宛の郵便物の宛名を思い出します。けれども、思い出せる限りの宛名の中に娘の名前はありませんでした。

「いいえ、お嬢さん。郵便は全部お店宛で来ていました」

それが彼女の期待している答えではないことを分かっていたピートは、なるべくゆっくりと静かな口調で伝えます。

「そうですか、ありがとう」

花屋の娘は鳶色の瞳を伏し目がちにしながら、一段下がった調子の声で礼を言います。ピートは心が締め付けられるような気持ちになって掛ける言葉を探しますが、いったい何を言えば良いのかまったく思いつきません。その時、店の奥から娘の名を呼ぶ枯れた声が聞こえます。

「ベル、ベル」

花屋の娘は、名を呼ぶ父親の声に気を取り戻すと、清んだ高い声で返事を返し、ピートに軽い会釈をして店の奥へと戻って行きます。

「ふぅ、まったく今日という日は」

ピートは考えのまとまらない頭のまま娘の姿が戸口に消えるのを見送ると、また一つため息をついて、白くぼやけた陽の差す公園を帰って行きました。


その日の配達を終えピートが家路につく頃には、辺りはすっかり暗くなり、路地の家々の窓からは晩御飯の美味しそうな匂いと家族で団らんを楽しむ明るい声が漏れてきます。宵時の大通りでは、建ち並ぶ飲食店の窓から弾むような談笑、グラスを打つ音、ピアノの伴奏に合わせた歌声が溢れてきます。ピートはひとり自転車を押しながら、夜の街の喧騒の中を抜けて、街灯の灯るアパートの前の坂道をゆっくり上がって行きます。

月明かりに照らされた四階の窓辺から、白いスパティフィラムの花が主人の帰宅を静かに見下ろしています。

「ただいま。リリー」

ピートは自室の窓を見上げて可憐な白い花に挨拶すると、アパートの脇に自転車を止め、色ガラスのついた玄関の扉を開けます。玄関を入ると、細長い廊下のつきあたりに見える階段を賑やかな笑い声が下りてきます。ピートが古い階段を軋ませながら上がるにつれて、男女の笑い声にビンやグラスがぶつかる音、コルクを抜く弾けた音、ガラスが割れるような音まで聞こえてきます。

〝パーティーの主催者はどうやら三階の寝ぼすけらしいな″

ピートが三階の廊下を通り過ぎようとした時、急に目の前の扉が勢いよく開いて、顔を真っ赤にした男がおぼつかない足どりで飛び出してきます。ピートがとっさに身をかわすと、すぐに扉の中から若い女性が現れて、男を連れ戻していきます。閉じていく扉の間から泥酔した男をからかう笑い声が漏れます。

ピートはそそくさと三階を抜けると、踊り場を回って、四階の自室の扉に鍵を刺します。明かりのついていない部屋では、窓から差し込む月明かりが光りと影のモノトーンの世界を作り出しています。一面グレーの世界の中で、スパティフィラムの花が薄い光りをまとわせ窓辺から微笑みかけます。

ピートは玄関のコート掛けに鞄と帽子を下げると、明かりをつけないまま窓際の椅子に腰を下ろし、窓の外を眺めます。町外れの丘の上に建つアパートからは、夜の街が一望できます。遠い視線の先にみえる一際光の集まっているところは噴水広場です。ピートの頭に昼間の広場での一件が思い起こされます。

「目のないサイコロか、あいつの言う通りかも知れないな。確かに、僕には酒を飲み交わす友人も、歌やダンスを一緒に楽しむ恋人もいない」

きっとあの灯りの下では、皆が友人や恋人と楽しい時間を過ごしているのだろう。そんな考えが頭をよぎって、ピートは急に自分がこの街で一番に寂しい人間なのではないかと思えてしまいます。

「そんなことないさ、僕は十分に幸せだ。それに友達ならリリーがいるじゃないか」

嫌な考えを振り払うためピートがわざと大きな声を出した時、ガラスの割れる大きな音がして、階下の窓から何かが飛び出していきます。ピートが立ち上がって窓の下を覗くと、片方だけの靴がアパート前の坂道を転がっていくのが見えます。どうやら酔っ払った誰かが窓から靴を放り投げたようです。

「それに、片足を裸足のまま仕事に行かずにすむしな」

ピートは呆れた顔でそう言うと、カーテンを閉めて窓辺を離れます。階下の騒ぎはピートが深い眠りについても終わることはありませんでした。


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