EP.2
2-1
銀盆に乗った合成肉のグリルが、芳香を炊きながらジェット・レミオンの嗅覚をかすめていった。青と白の給仕服を着たウェイトレスの後ろ姿を意味もなく視線で追い、角席の男性のテーブルに置いたところで意識を文庫本に戻す。
国営大衆レストラン【ジブ】店内の込み具合は、週末の夜にしてはまばらだった。決して常に人がにぎわうような派手な店でこそないが、落ち着いた雰囲気と手の届きやすい値段の料理が多いことから幅広い層の客が集まる。
アロイコアにとって食事とは嗜好の一つに過ぎなかった。定期的な充電さえ行えば運動のエネルギーには過不足がないからである。むしろ食費が電気代以上にかさみ、取り込んだ資源を排出する手立て――人によって方法こそ異なるが――をこなす手間のことを思えばもたらす不利益の方が多いように思えた。
それでも祖先の人類が持っていたという三大欲求の一つ、食欲という概念を満たす行為は多幸感をもたらすらしく、多くのアロイコアが食事用のツールを身体に導入している。恋人や家族を連れて至福のひと時を満喫する者もいれば、ジェットと同じように軽食とコーヒーだけを注文して長く居座る者も少なくはなかった。
必要不可欠ではないがだいたいの人は導入しているという意味で、貧困層が集う下部街でもレストランの数は多かった。
『――ねぇ、面白いの? それ』
ジェットの脳内ステレオを伝播して声を上げた高音域の機械声の主については、質量を持ってこの世界には存在しない。彼がプラグインとして導入している人工知能、【アシュリー】によるものだった。
脳内という狭い領域にもう一人の確立した人格と同居することに、末わからぬ恐ろしさこそ伴わせたものの、当時のジェット自身は嬉々として受け入れた。
即興的に多様な思考が求められる自身の仕事にメリットをもたらすことを期待したのが半分、天涯孤独の寂しさを紛らわせてくれる期待で導入したのがもう半分。しかし、数年も文字通り寝食を共にしていると頭痛の種としての機能も持ち合わせていることが判明したのは誤算だった。
″読書中は語り掛けないでくれと言った筈なんだけど″
『暇なんだもん』
″もうじきで約束の時間だから辛抱してくれ″
集中力が途切れ、窓の外に視界を遣る。本日は雨ふり模様で、46インチの窓は斑の雨粒がガラス面を伝っては落ちていった。その背では軒先から垂れる雫がとぎれとぎれの細線を描いている。
4人も並べば道が塞がれてしまいそうな通りに、ところ狭しと立ち並ぶ凹凸の煉瓦ビル群。空間を埋めるように配置された蛍光色のレーザー看板が目の痛くなる彩光を放っていた。
その下を多色の傘が往来し、細道は迷路のように延々と続く。雨音と電飾に紛れたこの街の喧騒を形容するなら、
1000年前、原初のアロイコア、【コアナンバー1】がその自我を自覚した時、世界はまだ人類の生活感が残っていたのだという。
記憶もノウハウもないままに放り出された地で生きていくことを強いられた祖先たちは、1000年前に人類が残した文明の跡を唯一の手掛かりに、それらを倣った、アロイコアという生の様式を長時間をかけて確立した。
その最中で発展した、まるで死体に咲く花のようなこの街に名前はない。誰からか教わることもなく、人々は、荒涼たる大地の一角に根を張るここを【
「いつもその本を読んでいますね」
ジェットの背後から姿を現したのはレストランに長く在籍する女性ウェイトレスで、勤務時間を終えたためか普段は見慣れない私服に着替えていた。肩から合成革のバッグを吊るしている。口元にえくぼがあるのは10年くらい前に流行った外形パーツで、大人びた豊かさに加え、時代に囚われない安定感という価値を揮発し始めしていた。
ジェット個人としては、好みだなとひっそり思っている女性だった。
廉価のジーンズと、フェルトをつなぎ合わせて作ったような造形の悪いセーター。
この街ではポピュラーないで立ちだが、年齢にあわず若々しく見える彼女の躯体もあってか、これから夜遊びに繰り出す支度を終えたようにも見えた。
『――あら、あんたに声をかけてくれる女の人なんて珍しいわね。気があるかもよ』
″ちょっと静かにしてくれ。会話の処理が追い付かなくなる″
「本を読むのにはどんなプラグインも必要ないですからね。金のかからない趣味です」
対比するように、ジェットは自分の服装について考え直した。アシュリーは言及せぬが、何年も着まわしているストライプスーツに袖を通してレストランで本を読んでいるというのは、他に着る服がないレベルの貧困層なのかと勘繰られることもありうる話だった。
手入れこそ小まめに行っているが、年期に勝てるクリーニング法は未だ発見されていない。刷新が間に合わないことはみすぼらしさに直結する。
座席の空いたスペースに丸めて置いているこげ茶のトレンチコートを着込めば、ワーキングプアを探す街頭調査で真っ先にマイクを向けられるような冴えない中年男性型アロイコアが完成する。
「どういうお話なのです?」
あ、席いいですか、と言われるまでもなくジェットは手の先を伸ばして向かいの空席へ誘う。文庫本にはしおりを挟み、表紙を上にして資料を提出するように、さりげなく机に置いた。
「伝統的なミステリーもの、といったところですね。これは人間がいた時代の作品なので、ある意味では古典と呼べるのかもしれませんが。誰かの死をテーマに据えて、その真相と隠ぺいされた動機を推理する物語といえばいいのでしょうか」
なるほどなるほど、と、女性はにこやかにうなづいた。
ジェットの記憶が正しければ彼女の胸元のネームプレートの文字は「ミレナ」だったか。
「まぁ、わたしは本を読んだことがないのでよくわかりませんが」
「実は僕も、わかっていないことがあって」
雨脚が強くなったが、店内に流れるジャズミュージックがそれをかき消した。
「この物語は事件の収束、いわば真相の解明こそが目的地なのですが。登場人物の心情は『犯人を見つけること』が全てなのです。事件の真相に興味があるのは主人公の探偵くらいのもので、舞台上の人物達の思想は全てがそうというわけでもない。それなのに物語は私が知りたい領域を目指して動いていく」
「そりゃあ……」ミレナはちらと腕時計を確認し、もう少しゆっくりできると判断したのかジェットの方を向きなおした。「ジェットさんはあくまでも読者ですから舞台の外です。舞台の内側の登場人物と、外の観衆とでは視点が違いますもの。2つの手綱を同時に握って、観衆の心を揺さぶるために登場人物を動かして目的地を目指すのが芸術作品ではなくて?」
「その通りだ。だからこそ、わからないんだ。その前提があるからこそ」
文庫本の帯を指さした。読者の購買意欲を刺激するための文言が、計算されたフォントと大きさ比率で配置されている。
――圧倒的感情移入!! 衝撃のラストにあなたはきっと涙する!!
「人間は読書の愉しみ方として、感情移入という手段を用いるみたいなのだが、舞台の外と中という決定的な隔たりのせいでそれができないんだ」
彼女は困惑したように肩をすくめ、「ごめんなさい。私にはわからないです」と小さく返した。
この時アシュリーは思考する。
″ああ、これじゃジェットは一生伴侶ができそうにない。鼻はちょっぴり腫れぼったいけど、顔は悪くないんだから惜しいよね。後退を始めた生え際がタイムリミットの指標ってところかしらね″
本人にその旨を伝えないのは、黙っていろと釘を刺されたからであると、後に思想履歴を読み返されて言及されても弁明できるように保存しておいた。
「それにしても、今日は珍しく遅くまでいるんですね」
「ええ。もしかしたら、ここに来るのは今日で最後になるかもしれないので」
思いにもよらなかった発言に、ミレナが目を見開く。心なしか背筋が伸びたようにも見受けられた。
「それってどういう意味です?」
ジェットは壁にかけられた丸時計に目を見遣る。
――約束の時間だ。
先ほどの合成肉のグリルを平らげた男が席を立ち、レシートを握ってレジを目指して歩き出していた。ジェット本人は人の事を言えないが、絵にかいたような浮浪者といった風情の、ボロボロのスポーツジャンバーを着た痩身の男だ。自身の手入れさえ行き届いていない錆びついた顔からみられる困窮の度合いが、落伍者の末路のサンプルといわんばかりの哀愁を漂わせていて見るに堪えられなかった。
彼の全貌を見届けられるように同じく席を立ち、左瞳孔に内蔵したカメラを起動した。本人の意向により映像を残してほしいとのことだったので、できるだけちゃんとした画を撮ってやるべきだろう。
手の空いている給仕が居合わせなかったのか、代わりにシェフが手を洗って対応に向かった。見習いの身なのだろうか、他のシェフ達と同じような縦長のコック帽を被ってはいない。
取引額がレジキャスターに表示され、男は金額を確認した後に財布を取り出した。小銭入れのポケットの金具をあけると、中から取り出したのは、同時に誰もが取り出すであろうと予測した金額分の小銭ではなかった。
というよりかは、払えるだけの額が取り出せるのかと誰もが目を遣っていた。
男がこのレストランを指定したことを理由に依頼を断ろうかとも思ったのだが、どちらにせよ通えなくなる可能性があるのなら請負わざるをえなかった。録画を開始する。ジェットの瞳孔が赤色に点灯した。
姿を見せたのは、キッチンタイマーくらいの大きさの小型スイッチ。面積の8割を占めていた赤いボタンを押し込むと、男の身体はジャンバー越しにもわかるくらいに白く発光し始める。
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