とくべつなおんなのこのしるし

ささゆり

第1話 はじめてそれをした日

 はじめてそれをしたのは、小学五年生の秋だった。

 きっかけは、あまり覚えていない。けれどきっかけなんていうものは、べつに何だって良いのだ。それは大抵最後の引き金にすぎなくて、大した意味なんて持たないのだから。


 わたしはその夜、灯りを消した部屋で、ひとり密かにそれをした。

 静かな夜だった。

 わたしの部屋には鍵がついていなかったから、代わりに古いアルバムや教科書の入った重たいダンボールをドアの前に置いて、誰も入ってこられないようにした。邪魔が入る心配がなくなると、わたしはため息に似た空気を吐きだして、それからベッドに腰掛けた。身体がスプリングを軋ませる音が、やけに大きく聞こえた。半分だけ開けたままにされたカーテンの隙間から入りこんでいた月明かりが、ぼんやりと部屋の輪郭だけを浮かび上がらせていた。

 カッターナイフとハサミを手元に用意して、身に着けていた長袖のブラウスの袖を、肩のあたりまで無理やりまくり上げた。青白い肌にうっすらと血管が透けている子どもっぽい腕。見慣れていたはずの自分の腕は、薄暗い部屋でじっと目を凝らして見ると、なんだか不気味で気持ちの悪いものに思えた。漫画や映画やファッション雑誌の中にいる、ぴかぴかの手足を持った自分と同じくらいの年齢の女の子たちのことを「なんだか、嘘っぽい」と感じるようになったのは、たぶんこの頃からだったような気がする。

 わたしはしばらく自分の不健康な腕を眺めた後、右手で持ち上げるように左手を支えながら、いちばんやわらかそうなところ――左二の腕の内側に、噛みついた。

 最初はくちびるで軽く挟むように表面をくわえた。何かを確かめるように、舌でそっと肌をなぞると、意味のわからない感覚がつま先から頭のてっぺんに抜けていった。わたしはひんやりとしたその部分に、ためらいながら歯をたてた。わたしの肌にわたしの歯がしっとりと食い込むのを感じた。自分の腕は、それまでに食べたどんなお菓子とも似ていない、妙な歯触りがした。

 痛いとは思わなかった。

 良くないことをしているのだという自覚はあった。ちらりと、膝の上に置いたままになっているカッターナイフとハサミに目をやった。こういうもので傷つける方が、まだ普通だったのかもしれないとも思った。思ったら、すこし嬉しくなった。わたしは自分自身を食みながら、トラックに轢かれるのと肉食獣に食べられるのではどちらのほうがより残酷な死に方だろう、というようなことを、すっかり冷めた脳の一部分で考えていた。

 しばらくして口を離すと、腕がほんのりと赤くなっていて、その上にぽつりと小さな痕ができていた。

 それは手で強くこすってみても消えなかったので、わたしは慌てて家の救急箱から包帯を持ち出し、痕が隠れるように腕にそれを巻いた。救急箱が置いてある洗面所から自室に戻るまで、家族の誰にも会わなかったのはラッキーだったのかもしれない。

 片手で不器用に巻こうとしたせいで包帯をベッドの上に散乱させてしまっていたことに気づいたのは、まくっていたブラウスの袖をもとに戻した後だった。

 腕にじんわり残った鈍い痛みと、ベッドの上に広がったたくさんの白は、部屋は薄暗くて色の判別なんてほとんどつかなかったはずなのに、何故かいまでも鮮やかに思い出すことができる。


 そのとき以来、ときどきそれをするようになった。

 いつのまにか自室の学習机の抽斗には包帯が常備されるようになり、ゴミ箱はすぐ白いものでいっぱいになった。ノースリーブやキャミソールのような袖のない洋服は、自然とクローゼットから消えてなくなった。

 わたしの左腕の内側には、いつもちいさな痕がついている。ひとつ消えるたびに、新しい痕をふたつつける。そうして、わたしの腕は数えきれないほどの「証」で埋め尽くされる。


 そうだ、これは証だった。

 自分自身につけてあげる、証。

 わたしがわたしを認めてあげた、証。

 その証をセーラー服の下に隠して、わたしは今日も学校へ行く。


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