形見の女(殺伐百合短編)
晴海ゆう
形見の女
祖父の遺産
01_この世で一番美しいもの
「
自分の年齢もあいまいな幼い頃、祖父は私にそう問いかけた。
私はそのとき、祖父のものだという四角く切り取られた風景を、まるで食べて自分のものにするように見ていた。
匂い立つような花と、それを浮かべる深い色合いの水面。瞬間を塗りこめたような、言い表す言葉をまだ自分の中に持ち合わせていない何か。
その絵が、かの巨匠モネが描いた『睡蓮』の一作だと私が知るのは、ずいぶん後になってからだ。
その時はただ祖父の言葉に小さく「わかんない」と返すことしかできなかった。
「でも、私、欲しい」
この名状しがたく、かけがえのないものを自分のものにできたら、それ以上の幸福はない。他人ではなく、自分の手に。
それを所有欲と知るには、私はまだ幼かった。ゆえに、食事の前の飴をねだるように、クリスマスの夜の夜更かしを願うように、そう言うしかなかった。
祖父はそんな私の頭を撫でて、目尻に優しくしわを寄せた。
「お前は美しいものが好きなんだね」
「わしと同じだ」とおかしげに笑う声が、その美と、私と、祖父しかいない空間に響いた。
笑い声の余韻が消えるころ、祖父は静かにしゃがみ、私と視線を合わせた。その黒々とした目には、何かいたずらをしかける前のような茶目っ気が滲んでいる。
「なあ礼、これはお父さんにも、お母さんにも、誰にも秘密だぞ」
祖父はまるで誰かが盗み聞きでもしているかのように、声をひそめた。
「もし欲しいなら、いつかこれを全部、お前にあげよう」
「……!」
それは本当か。いつかとはいつか。言いたいこと全てが、喉に詰まった喜びで声として出てこなかった。触れるのもためらう美が、自分のものになる。
どれほど私が喜んでいるかわかったのだろう、祖父が自分のことのように嬉しそうに笑う。なんとか「いいの?」と声を絞り出した私に、祖父は言った。
「ああ、いつか全部、そしてこの世で一番美しいものを、お前にあげよう」
祖父のその言葉の本当の意味が分かったのは、彼が亡くなってからだった。
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