第2話 衝撃
翌日、実習生たちはホームルームを終えた後、授業見学をしてレポート作成に追われていた。
授業構成や他の資料からの引用の提示の方法、授業項目の『間』の取り方、生徒への気の配り方、理解度を図る方法、など気付いた事や分からない事をまとめて行く。
(・・・章浩くんか・・・性格も良いみたいだし、仲良くなれるといいな・・・)
綾香が今朝も懐っこく話してくれた章浩を思い出し、下書き用のキャンパスノートにペンをそっと走らせた。
『 一色章浩 』
「ねぇ、村崎さん。どんな風にまとめた?」
「ほぅわあっ!」
いつの間にか隣に来ていた穂莉が綾香に囁(ささや)き、あわあわと自分のノートを両腕でガードした綾香は心臓をバクバクさせながら穂莉に向けて笑顔を作った。
「ご、ごめんっ。脅かすつもりはなかったのよ。」
「あ、あはは・・・気にしないで。私が勝手にびっくりしただけだから。」
「ちょっとまとめ方に詰まっちゃって。参考に教えてくれない?」
「う、うん。どんなところ?」
キャンパスノートを死守したまま綾香は穂莉の持ってきたノートに目をやった。
『一色くん、かっこいいね』
「!」
動揺に目が泳ぐ。
「なっなな・・・」
「ふふ。」
不敵な笑みを浮かべて、穂莉がさらさらとノートに書き付ける。
『あれからお茶でもしたの?』
『そのまま帰りました』
『もったいない。LINEは?』
『ナンパなんてしません』
筆談をカリカリと進め、穂莉がふんふんと数度頷(うなづ)いた。
『健闘を祈る』
ぐっと親指を立ててから静かに去って行く穂莉を、綾香はしばらく見つめていた。
体育館の更衣室で、綾香は三組の女子と一緒に着替えていた。
高校生女子の着替えはきゃいきゃいと賑やかだ。
自分にもこんな頃があったなぁなどと考えながら、綾香はアディダスの黒ジャージを引っ張り出した。
高校生たちは白地に赤いリブラインのある半袖体操服に赤地に白のサイドラインの入った短パンに着替えている。
(うお、最近の娘は発育が良いなぁ。チクショウ・・・)
JK(じょしこうせい)のスタイルに気後れした綾香は隅の方で小さくなってそそくさと服を脱ぐ。
「わあ、先生の下着、オシャレ~。どこで売ってるの?」
近くの女子が綾香に声をかける。
「え、あ、その、これはショッピングモールの二階のお店でね・・・」
目の前のDカップEカップ達に怯みながら、綾香は勝負下着クラスを付けて来て良かったと内心安堵した。
4時限目の体育の授業。
バドミントン経験者として、綾香は体育教官の補佐として指導して行くことになった。
練習風景を見る限り、進学校の皆さんは綾香の高校のメンツと比べて、あまり運動は得意ではないようだ。
男女混成ダブルスで、2グループに分かれて試合を行う。
ぱっつんミディヘアの越路(こしじ)六華(りっか)が後ろ髪をちょろりとゴムでまとめ、ペアの章浩がラケットをくるくると回しながらコートに入った。
綾香はそのコートの審判として、ネットのポールサイドのパイプ椅子に座る。
「じゃあ、いっくんは後衛ね?」
「あいよ。ネット際はりっちゃんよろしく~。」
(いっくん・・・りっちゃん・・・)
綾香は聞こえて来た二人の会話に眉をひそめた。
シャトルのバシュッと言う音が規則的に続く。
試合は、レベルは高く無いが同程度の腕前なので、そこそこ見ていられるプレーが続く。
相手チームがネット際から後方の右サイドへスマッシュを放ち、六華が空振りをする。
右半身に構えていた章浩が飛び出し、大きくつんのめりながらバックハンドでシャトルを拾い、そのまま綾香の近くで転がった。
相手側のネットすれすれにシャトルが落ちて、それが章浩・六華ペアの決勝点になった。
綾香がホイッスルを吹いて試合終了を告げる。
「やった~。いっくんお手柄~。」
「へへ~。」
ゴキゲンな声で章浩が起き上がる。
「あっ! いっくん。目!」
六華のすっとんきょうな声に、綾香がパイプ椅子から飛び出して章浩の顔を覗き込む。
「きゃああっ!」
章浩の左眼窩からサーモンピンクの肉(にく)襞(ひだ)がのぞいていた。
「いやああっ、たたたた大変、きゅっ、救急車をっ!」
綾香は首に架けていたタオルを章浩の左顔面に押し付けて叫ぶ。
「ぶはっ。いや、先生、落ち着いて。」
「お、おおおおお、おちっ、これが落ち着いて・・・」
妙に冷静な章浩が左眼窩内壁剥き出しの顔で、慌てまくる綾香の両肩を掴んでなだめる。
「あ、いっくんこれ。ポールのところに有ったよ。」
「お、サンキュ。助かるよ。」
六華から何かを受け取った章浩は、パニック冷めやらぬ綾香に向き直った。
「いや~、これがホントの『落ち目』ってヤツ?」
左手でピンポン玉のような白い眼球をつまんで目の横に掲げた章浩は、にっこりと笑って見せた。
綾香はそのままふぅっと膝から崩れ落ちた。
気が付くと、視界いっぱいに白いジプトンボードの天井が広がっていた。
カーテンレールには薄ピンクの遮光カーテンが吊られてあり、黒ジャージのままシングルベッドに寝かされている。
「あ、あの~。」
綾香は起き上がって、カーテンから顔を覗かせた。
気が付いた保健医が、書き物をしていた机から綾香の方へ白衣をなびかせながら歩いて来た。
「気が付かれましたか? 二年三組の男子生徒と体育の高橋先生が、日赤救急法の毛布担架を作って運んで来られたんですよ。気分はいかが?」
細い銀フレームのメガネで、長い黒髪をお団子に束ねたこの女医さんはにっこりと笑った。
「あ、あのっ。二年三組の一色章浩くんは大丈夫ですか? 授業中に左目を・・・」
綾香は血相を変えて女医に詰め寄った。
「ああ。その子が高橋先生と一緒に担架で運んで来てくれたのよ。保健室ついでに眼窩と義眼の洗浄をして行ったわ。」
「ぎ、義眼・・・?」
綾香はへなへなと膝を突いた。
「そうか、実習生のあなたは知らなかったのね。彼にはちょっと特殊な経歴があるの。」
女医は自分の机の傍に綾香を招いて、インスタントコーヒーを淹れた。
「教職員の中で共通認識事項だからあなたにも教えてあげる。」
女医は分厚いファイルを引っ張り出してパラパラとめくった。
『研修室』に戻ってひとり待機していた綾香の耳に、5時間目の終了チャイムが聞こえた。
しばらくすると、部屋の後ろの扉がそおっと開いて、そこから章浩が顔を覗かせた。
「あ、良かった。先生大丈夫?」
目が合うと章浩はにっこりと笑って『研修室』に入って来た。
傍らに立った章浩の顔を綾香はじっと見つめた。
「ん? 何か付いてます?」
「あの・・・なんて言ったら良いか。」
「うん? 『今日もおつかれさま。』で良いんじゃない?」
章浩は綾香の隣の丸イスに腰掛けた。
「・・・その目のこと保健の先生に教えてもらったの。」
「うん。別に隠してるつもりは無いし、クラスのみんなも知ってるコトだよ。この左目は作り物だって。」
章浩は全く意に介さない様子で話す。
「やっぱ、珍しい?」
「え~と、あの・・・不便?」
どう言葉を繋いで良いか分からなくなった綾香はちょっと的外れな質問を口にした。
「全盲の人とは違ってちゃんと右目は見えてるから。まぁ、左側をちょくちょくぶつけることはあるけどね。」
章浩は、ひょいと肩をすくめて左目をウインクして見せた。
義眼と言う意識でその目を見ると、確かに眼球運動は無く光彩は正面を向いたままだ。
左右の白目も質感が異なっている。
いわゆる『障害者』を間近で見たのは初めての綾香は、どう切り出して良いのか分からなくなってしまった。
「・・・先生? こういう人種は苦手?」
寂しそうな顔で章浩が覗き込む。
「え、いや、そんなことは無いよ。一色くんは一色くんでしょ。」
「そうだよ。片目が無くても僕は僕、それ以上でもそれ以下でも無いよ。」
「あの・・・どういう怪我なのか、聞いて良い?」
軽く頷いた章浩は、周囲を見回し、誰も居ないのを確認した。
「詳しい事は、クラスのほとんどの子にも言ってないんだ。ナイショにしてくれます?」
「う、うん。」
声を潜めて真剣な顔になった章浩の雰囲気に、綾香は背筋を伸ばした。
章浩は少し背を丸めて、両手を膝の上で組む。
「・・・僕は母子家庭なんです。本当の父さんは知りません。僕が小三の時、母さんの恋人がウチに転がり込んできました。そいつはしばらくすると母さんを殴るようになりました・・・」
章浩は視線を落とし、いつもの懐っこい顔からは想像出来ない憎しみの籠った表情に変わって行った。
「・・・あいつは母さんの居ない時には、僕に手を上げるようになりました。それに気づいた母さんは僕を守ろうとしてめちゃくちゃに殴られ・・・その時、僕はあいつに飛び掛かって・・・」
苦しそうな表情で両目には涙が溜まっていた。
「大人の力には敵(かな)いませんよね。僕はあいつの右拳が左目に当たると意識を無くしていました。次に気が付いた時は大きな病院のベッドの上でした。顔は包帯でぐるぐる巻きでした・・・」
眉間にシワを刻んで小刻みに震える。涙がポタリと章浩の夏物スラックスに落ちた。
無言ですいっと左サイドの髪を掻き上げた。
こめかみにはケロイド状の傷が生々しく刻まれていた。
「僕は・・・」
「もういいっ。」
綾香は章浩の言葉を遮って抱きしめた。
「怖かったんだね。聞いてごめん。」
「・・・怖くはないです。ただ・・・あいつに何も出来なかった自分が・・・悔しいだけです・・・」
涙声が胸元からくぐもって響く。
やがて涙声は絞り出すような泣き声に変わった。
抱きしめる胸元から、章浩の頭がすいっと離れた。
辛そうに固く結んだ唇の端が震え、両頬に涙が伝っている。
「章浩くん・・・」
綾香は胸の奥が焦げるような感覚に包まれた。
綾香の両手が章浩の頬に添えられ、彼女の唇が小刻みに震えている章浩の唇に重なった。
章浩は驚いて目を開ける。
綾香は熟れた果実を貪(むさぼ)るように、幾度も唇を求めた。
章浩もぎこちない動きで綾香の唇を受け止め、二人の両手はお互いの背中に回っていた。
しばらくそのままで、時が流れる。
「先生・・・」
ほうっと息を吐きながら、章浩は綾香の耳たぶに口づけした。
「うふ・・・ん・・・なぁに?」
章浩の首に両腕を回したまま、綾香も半分呆けた様子で吐息混じりに呟いた。
「ファーストキス、奪われちゃった。」
「え・・・・・・あっ、ご、ごめんなさいっ。」
我に返って、自分でも凄い事をしていると解った綾香は、ばっと体を離した。
泣き腫らして右目が赤い、章浩の顔が目の前にあった。
彼の頬は紅潮して、照れたような笑みを浮かべて綾香を優しく見つめている。
「ご、ごめんなさいっ、わ、わ、私ったらっ。」
耳まで真っ赤になった綾香はわたわたと体を揺り動かす。
「・・・ふふ。嫌な思い出だけど、話して良かった。おかげで先生とキス、出来ちゃった。」
「も、もうっ・・・」
綾香は真っ赤な顔のまま顔を伏せた。
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