5.


 人気のない多目的室。

 窓から射した夕日の橙色が、定規で引いたみたいに三角に教室の壁に射していた。

 小綿紡希の顔は、顔半分だけ、その色に染められている。


 話を終えて、小綿紡希は、水筒のコップに入れた水道水をこくりと飲んだ。

 まるで、おばあちゃんが昔話を終えたみたいに、たいしたことのない日常の一部を報告したような落ち着いた様子だった。


「……な、に、それ……」

 しかし、反対に歴は、動揺を隠せず額を押さえていた。

 途方もない話を聞いたときは、人間はこんな感じになるのか。脳みそと耳以外の感覚が、どこかにいってしまったのではないか、とさえ思った。


 話がある、と小綿紡希は言った。歴は聞くことにした。

 だが――こんな途方もない話だとは、思わなかった。

 小学生女子が経験する話として、度を越えている。越し過ぎている。


 何より驚いたのは、

「その森って……深隅みすみの森って、自殺の名所じゃん!」

 叫んだあとで、歴は思わず周囲を見回した。


 放課後の多目的室には、もちろん、歴と小綿紡希のほかには誰もいない。

 こういう話は大声でするものじゃないって、祖母に口酸っぱく教えられていたのだ。


 紡希が行ったという深隅の森は、自殺の名所として、町内の人だけでなく県内でも有名な場所だった。街に住んでいる歴の従姉妹たちも知っているほどだ。足を踏み入れるのは町の消防団ぐらいで、近くに住む住民も滅多に中には入らない。


 そんな森で、小綿紡希は夜通し、過ごしていた――。

 ところが当の本人は、ぱちぱちと、二度、瞬くばかりで、

「そーなんですか」

「そーだよ!」

 まるで他人事だ。

 歴が怒鳴っても、紡希は事の重大さがわかっていないようにケロっとしている。変な子だと思っていたが、ここまで鈍いとは。


 歴は呆れ、頬杖をついて小綿紡希を見上げて聞く。

「大体さぁ、なんでそんなとこに行ったの? お父さん、お母さんは心配しなかったの? 誰かに相談して――」

「してません」

 歴の言葉を紡希は遮る。


「して、ません」

 強い口調は、今までとは明らかに違った。


 ――お友達の家庭の事情には、踏み込んではいけないのよ、歴さん。

 以前、祖母が口にした言葉を、歴は思いだした。世の中には、歴の想像が及ばないぐらい、複雑な家庭の子供がいる。そういう子の事情には、自分から言いださない限り、踏み入ってはいけないと。


 困惑の末、冷静になった歴はあえて、話題を変えることにした。

 紡希が女の人から貰ったという手帳に、視線を落とす。


 だれかたすけて、と記された、例の水辺に落ちていたという赤革の手帳を。

「それで、この手帳が、なんだって……」

「これを、届けてください、って。“わたし”の代わりに、届けてほしい、って」


 紡希が言う「わたし」とは、きっとこの手帳の持ち主ということだろう、なのだろうか。全てが非現実的すぎて、想像の余地がない。そしてその“わたし”が届けてほしい相手とは――。


「……誰に?」

 歴が尋ねると、小綿紡希は、かくんと、落ちるように首を横に傾げた。どうやら、小綿紡希にも、わかっていないらしい。


 歴はとうとう背を椅子にもたれかけた。お手上げだ。

「ねぇ紡希、これさぁ、警察にいったほうがいいんじゃない?」

「お巡りさんは、もう、いきました」

「そしたら、なんて?」

「信じてくれないから、だめでした」


 ううん、と歴は困ってまた唸った。

 警察が何もしてくれないなら、どうにもならない気がする。

 歴はこういった事態はあまり経験がないが、先生や周囲の大人たちより、警察を頼るべきだという認識があった。


 だが――困ったことがあるなら話していいと言っておいて、あっさり白旗を挙げるのはカッコが悪い。


「紡希、聞いて」

 見上げてくる小綿紡希の視線が、歴をよろよろと捉えた。


「おれに出来ることだったら、なんでもしたいと思ってる。ほんとだよ。でも正直、どうしたらいいのか検討がつかないんだ」

 厚い前髪の間から、じっと歴を見つめていた紡希が、やがて意を決したように口を開いた。


「よんでみて、ください」

「……え? おれが?」

 小綿紡希は、こくりと頷く。

 紡希の言う“よんでみて”は、“呼んでみて”のようにも、“読んでみて”のように受け取れた。


「モノには、きもちがあるんです。この手帳さんは、委員長に見つけて欲しかったんです。だから、委員長の足元に落ちてページを広げたんです。“たすけて”ってメッセージを見てほしくて」

「……おれに? なんで……」


「物は、喪ので、モノ。見えないけれど、失くしてしまったようだけれど、きちんと心があるんです。よ」

 唱えるような紡希の言い方に、ふと歴は疑問を覚えた。


「……それ、誰かに教わったの?」

「……誰でしょう」

 不思議なことを言って、紡希はまた、歴を見つめ返すだけだった。まるでお前の手番だ、とでもいうように。


 歴は返す言葉もなく、手帳をパラパラとめくった。

 ところどころ、難しい漢字もあるが、読めないほどではない。だが、人のプライベートを覗き見ている気がして、読むのは気が引けた。――なにより。


 歴に読んでほしくて足元に落ちてページを広げた、だって?


 ――絶対に偶然だと思う。

 運命だとか宿命だとか、そういった話を信じられるほど、歴は子供ではないのだ。もう五年生だ。年齢は二ケタ目になったし、来年は修学旅行にいく。あと二年で中学生になる人間が、安易に鵜呑みにしていい話ではない、と思う。オカルトはくだらない、っておばあちゃんもよく言っているし。


 だが、

 小綿紡希の無垢な瞳に見つめられて、バカバカしいなんて言いきれない。


 昨日までトウコウキョヒだった子が、やっと学校に来て、その話を、願いを、信じない訳にはいかない。


「……わかった。読んでみるよ……」

 もしかしたら、赤革の手帳の持ち主に繋がる情報が見つかるかもしれない。そこから警察にお願いすれば、もしかしたら聞いてくれるかも。もしかしたら、もしかしたら。


 何気なく受け取ったつもりの手帳は、歴の手のなかで、ずっしりと重く感じた。汚れたりしないように、丁寧にランドセルのなかにしまう。


 歴は立ち上がりながら、小綿紡希に質問をする。

「最後に一つだけ、聞いてもいい? どうして、手帳の届主を探してみようと思ったの?」


 紡希はきょとんとした様子だった。歴は慌てて言葉を重ねる。

「だって怖いし、不気味じゃ……」


 長い沈黙があった。

 無視かな、と歴が諦めた頃。

 カーテンがたなびいて、外の風を連れてくる。

 窓を眺めた紡希の水面色の瞳は、茜色を映していた。


「同じ。だから」

「……同じ?」


「同じ、おわりを辿るんです。紡希も。いつか」


 何を言い出すんだろう――とは、口に出来なかった。

 茶化すのも、疑うのも、ためらわれた。

 茜色を背負って、真っすぐに立つ小綿紡希。


 生まれてから今まで。歴と同じだけの時間しか生きていないはずの少女が、一体何を想っているのか。

 今の歴には、まだわからない。


 だが――応えなくてはいけない、ということだけは確かだと、歴は思った。


「……わかった。上手くできるかわかんないけど……頑張ってみる」

「はい。お願いします」


「……そのかわり、紡希、ひとつお願いがあるんだ」

「なんでしょう」


「もし、おれがこの手帳を誰かに渡すことが出来たら……学校に毎日来て、そしておれと友達になってほしい」


 紡希の、前髪の奥にある瞳が、不思議そうに瞬いた。不意打ちを喰らった、という顔。

 そしてまた、紡希の頭がぐらぐらと横に揺れた。

 わずかばかりの間のあと、紡希は答えた。


「……うん。わかった」

「約束だよ」

「はい。約束、です」


 そして、小綿紡希は翌日から、また学校に来なくなった。

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