人生旅日記・届け、大漁旗にこめられた想い
大谷羊太郎
届け、大漁旗にこめられた想い ~嬉しい知らせは少しでも早く~
足の向くまま あてどもなしに
流れ流れて 白髪に変わり
たどり着いたぜ このシリーズに
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私はこの二月に89歳になりました。関西生まれですが、その後一家は東京の目黒区に移住。小学校にあがるほんの少し前、母方の在所である伊豆大島に引っ越しました。
ただし、父親だけは仕事の関係で東京に残り、母親は、私と私より二つ年下の弟を連れて、大島での生活を始めたのです。
私は地元の小学校に入って、三年生の夏まで島で過ごしました。その後埼玉に転居したので、島での暮らしは、二年と八ヶ月ぐらいになるでしょうか。
しかし、私の人生にとってこの期間の思い出はどれも、この上なく貴重なものです。都会地では、とても体験できないことばかりでした。
その思い出の一コマ一コマが、私の胸の中に、少しも色褪せることもなく、いつまでも鮮明な画像のままに息づいています。
◇◇◇
島の生活に入ってすぐ、四月を迎え、私は新入生として、初登校の日を迎えました。
伯母がランドセルを送ってくれました。子供心にも、高級品だなと感じ取れる手ざわりです。
さて、登校してみて、まずびっくりしたのは、ランドセルを背負ってきたのは、全校生徒のうち、新入生の中の三人(もしかしたら、私のほかには一人だったかな)だけでした。
ほかの生徒は、全員、風呂敷に教科書などを包み込み、それを腰に縛りつけて登校してきました。そして、洋服を着てきた生徒も、ランドセルの数と同じでした。
つまり全校生徒は男女ともに、みな着物姿です。新入生の数は十数人。女の子はそのうちの数名にすぎません。
やがてわかりましたが、当時は、六年生の上に、高等科というのが、二年までありました。これは義務教育ではないので、行かなくてもいいのです。その人数も含め、全校生徒の数は、確か百数十人というところだったでしょう。
小学校生活がはじまりました。島での暮らしは、なにもかもが人生初体験です。まず知ったのは、苗字というものが、ほとんど使われないということ。名前のほうだけで呼び合うのです。
つぎに教えられたのは、上級生には、名の下に男性なら「兄い」女性なら「姉え」とつけて呼ぶこと。
たとえば、太郎という名の上級生には、「太郎兄い」。夏子という女性なら、「夏子姉え」という具合です。
同級生を呼ぶときは、名の下になにもつけずに、名だけを呼びます。
上級生が下級生を呼ぶときには、名の下に「~っ子」とつけます。この年に入学した同級生も、みな上級生から「~っ子」と呼ばれました。例えば、次郎という名なら、「次郎っ子」です。
ところがこの私だけは、そう呼ばれませんでした。名前ではなく、苗字にこの法則が適用されたのです。
すなわち、私は「おーたにっ子」と呼ばれて、小学校生活を送ることになりました。当時は、なぜ自分一人だけが、別な呼び方をされるのかと、特に考えたこともありませんでした。
しかし後年になって、その理由がわかりました。同級生たちは、みなこの土地で生まれ育っています。上級生は幼い頃から、かれらの成長してゆく姿を、間近で見ている。その親近感が身内意識をうみ、ごく自然に、しきたりどおりの呼び方になったのでしょう。
ところが私という新入生は、まるで別の世界からやってきた異分子です。着物に風呂敷包みという地元の子どもたちのなかで、私は洋服にランドセル。話す言葉も、島で使われているものと、だいぶ違う。兄弟意識は湧いてこない。そこで名前ではなく、姓のほうに、呼び方のしきたりを適用したのですね。
学校では、昼休みには校庭で遊ぶわけですが、全校生徒が一つになって、その時間をフルに楽しみます。
ただし、男性と女性は別です。私たち男の子は、学年など関係なく、ごっちゃ混ぜになって二組に分れ、スポーツゲームに興じる。上級生の指導の下、夢中になって走り廻るうち、昼休み終了の鐘が鳴る。
このゲームのお陰で、上級生たちとは、すぐに親しくなりました。
先生との親密度も、今、思うと格別なものがありました。なにしろ生徒の数が少ないので、先生も一人一人に細かく目が届きます。
私が入学したとき、一年生は二年生と一緒にされて、一人の先生が受け持っていたと記憶しています。今でも、地方の超過疎の地では、この形が生きているようです。
ちょっと考えると、同じクラスなのに、それぞれ学年別の違う教科書を使うわけですから、授業は無理なんじゃないかと思えます。しかし実際には、そんなふうに感じたことなど、まったくありませんでした。先生は実に巧みに、二つの学年を同時に扱って、授業を支障なく進めていました。
先生は課外授業というか、学校の外にも、よく連れ出してくれました。近くに公園風の松林があり、そこでよく教科書外の話など聞かせてくれました。
松林は海辺に面した高台なので、実に景色がきれいです。水平線の向こうには、伊豆半島が望めます。その背後にそびえ立つのが、美しい形をした富士山です。四季が変わるにつれ、毎日、ほんの少しずつですが、衣装の色合いを変えてゆくさまに、心を強く惹かれました。
生徒たちは、先生をぐるりと囲んで、同じように腰をおろし、リラックスして話を聞きます。あるとき茶目っ気のある一人が、先生の後ろに回り、背に負ぶさるようにしがみつきました。
先生は別になにも言いません。すると生徒たちは同じように、先生の腕に抱きついたり、太ももの上に乗ったりしはじめます。
先生が叱らないと知ると、みんなは図に乗って大胆になります。しまいには、先生を押し倒して、松の落ち葉が積もった地面に、上向きにして強く押さえつけてしまいました。
「みんな、もうそのへんで、離れてくれ」
先生が悲鳴をあげときには、もう遅かった。大多数で、身動きできないように、しっかりと押さえた上で、だれかが先生の体をくすぐりはじめた。笑い声を交えながらですが、「止めろ、止めてくれ」と先生は叫びながら、起き上がろうともだえます。
ところが生徒たちは、先生の狼狽ぶりが面白くて、ますます調子に乗りました。一人一人はほんの子供でも、人数の力となるとたいしたものです。
「助けてくれ。ほんとに、助けてくれ」
とうとう先生は、泣き声に近い悲鳴をあげました。これでようやく、生徒たちは立ち上がって、先生は自由になれたのです。そのあと、先生を含めて、全員で大笑いしました。
ときにはこんなふうに、先生も生徒も、実の親子のように戯れていた。ただしもし自宅にもどって、親にこの話をしたら、きっと親は怒ったと思います。親たちは先生を、先生様と呼んで、特別に崇めていたのですから。
島の小学校は、このような家庭的な雰囲気でした。そうして育った村の大人たちもまた、強い絆で結ばれていました。
皆さんは、大漁旗をご存じですか。言葉は聞いたことがあっても、実物をご覧になる機会は、そうそうないのではないでしょうか。
以前、甲子園の高校野球大会のとき、出場校の応援団が地元から運んできて、観客席に飾っていました。私にとっては、懐かしいものですが、これはその後、持ち込み禁止となったようです。
詳しい事情は知りませんが、あの場所に置くには、あまりにも大き過ぎたせいでしょうか。カラフルでとても派手だったように記憶します。
さて、私の暮らした伊豆大島のその村は、半農半漁で生活を立てていました。火山島なので、川はなく水に乏しい場所です。ですから水田はありません。
男たちは、海に出て魚をとります。船団を組み、朝早く出て遠くの漁場に向かいます。そして夕刻に港にもどってくるのです。
島で暮らした当時には、まだ子供の私には、せいぜいそのくらいの知識しかありませんでした。長じてからあの頃を思い返して、深い感慨を覚えるようになりました。
ある日の夕方、近所のおばさんが、私の家に駆け込んできました。
「今日は、かなりの大漁だよ」
母の顔を見るなり、おばさんは息を弾ませて、そう言いました。
それから視線を下に向けて、笑いの拡がった顔を、私に見せつけるようにして、
「あんたも急いで、浜に行きなよ。いいことがあるからさ」
と告げました。「きっと来るんだよ」と念を押すと、おばさんはまた急いで走り去りました。まさに、風のごとく来て、風のごとく去ったという感じです。
おばさんのこの行動の意味も、島に住んでいるうち、わかってきました。今朝漁場に出ていった村の船団は、大きな魚群と遭遇するという幸運をつかんだ。そして今、大量の魚を積んで、港に向っている。
ここの港は、水深が浅い。防波堤で取り囲んだだけの港です。ですから、船は岸につなぐのではなくて、陸に引揚げておくのです。引揚げ作業は、人手が多ければ多いほど、楽に済みます。
だからそんな状況のときには、船が港に着く前に、少しでも多く、海岸に人を集めておくのです。
つまりこのおばさんは、村人を集めるために、走り廻っているわけです。知らせを聞いた奥さんが、またとなりの奥さんに伝える。情報は人から人にと、網の目のような連絡網を伝わって拡がってゆきます。
さて、港の海岸はゆるやかな傾斜地で、表面をコンクリートで舗装してあります。
船が港に着くと、
滑車を回すために、回転軸には、何本も棒が取りつけられている。屈強な男たちが、その棒に取りつき、軸の回りを廻る。綱は軸棒に巻き付いてゆき、船は陸の上をそろそろとあがってゆきます。
私も日頃から、漁船が港にもどってきたときの様子を見ています。村中から人を集めなくても、陸揚げ作業はできることは知っています。
なのにこの日は、口コミの機能が働いた。それは滅多にない大漁だったせいでしょう。小学生の私にまで、浜に出て船を迎えろと、連絡役のおばさんは命じた。非力な子供の私など、邪魔にはなっても、役には立つはずなどないのに。
これはつまり、村にいいことが起きたから、少しでも多くの村人たちと、それをともに喜びたい、という意味合いだったのですね。
浜に行ってみると、船団はすでに港に着いていました。大勢の人たちが引揚げの縄に取りついて、作業中です。私もその中に割り込み、綱に手をかけます。
全員が「よいしょ、よいしょ」と声をあげ、調子を合わせて綱を引きます。
船底の下には、差し込まれた枕木が並んでいます。掛け声の合唱とともに、船はその上を着実に進んでゆく。形ばかりの応援なのに、自分の加えた力が、いくらかでもパワーを発揮しているような錯覚が、私にも生まれます。
ですから、縄が回転軸にすっかり巻き上げられ、「はーい。終わったよー。みんな、ご苦労さーん」と漁夫の大声が響いたときには、まるで自分の力が役立ったような喜びを覚えました。
魚の一部が小分けされて、大きなバケツのような容器に山盛りに入れられ、運ばれてきました。
「お手伝いの皆さん、ご苦労さんだったね。さあ、こいつを持ってきな」
おばさん連中が、嬉しそうに容器に群がる。それぞれ、容器の中から魚を選び、それを手にして帰ってゆく。
漁師のおじさんが、私に声をかけた。
「お前さんも、遠慮しねえで、お土産を持って帰りねえ。これなんか、うまそうだぜ」
当日の私の記憶は、このあたりまでで、細かいことは、霞の奥に消えています。
運搬用の容器の中で、ぴんぴん跳ねている魚は、みんな同じ魚。大型の鰯ではなかったかと思います。元気が良すぎて、噛みつかれそうな気がして、手を出すのさえ、私はためらった。すると漁師のおじさんが、特別にうまそうな魚を選んで、つかみあげた。そして、魚の尾のあたりに紐でもつないで、ぶら下げて持ち帰れるように、手を加えてくれた。
と、この部分は、夢とも現実ともつかぬおぼろげな記憶です。
でもその日、私なりに一仕事終えて意気揚々と家にもどり、母親に胸を張ってお土産を差し出したのは、一枚の写真のようにはっきりと憶えています。
漁業というのは、まさに命がけの仕事なのです。船底の下は、人の命を呑み込む海水地獄。まさに底板一枚をへだてて、地獄の上で働いているようなもの。
漁夫を送り出した家族たちは、今日も無事に戻るよう、一日中祈っているでしょう。夕刻が近づくと、気になって海岸に向うのでは。
遙か水平線を見つめる、その視界の中に入ってくる船は、最初にマストの先端を、水平線の上にのぞかせます。じっと見つめていると、大きな汽船なら、つぎに煙突です。そしてゆっくりと時間をかけて、船体の全容を見せてくれます。
地球が丸いので、船は上から下に向って、少しずつ姿を現してくるわけです。
都会地から島暮らしになった私にとって、こうして船が航行するさまを見るのは、いつしか大きな楽しみの一つになりました。沖に現れる船のほとんどは、島には立ち寄らず、遠目に眺めているうち、視界からふたたび姿を消してしまいます。
都会で暮らしていると、一日の中で、実に多くの人の姿を見ます。縁もゆかりもない通行人を入れると、かなりの数になります。
ところが島暮らしでは、出遭う人となると、同じ村の人以外は、まずありません。私の村は、大きな汽船は着かないので、島は有名な観光地なのに、観光客が通ることもあまりありませんでした。
まったく変化のない環境ですから、遙か沖合に浮かぶ船を眺めるだけで、とても刺激を受けるのです。
自分とは無関係の船を見ただけでも、心が動きました。ましてや、夫、あるいは父親、息子など、家族を海に送り出した人たちは、一日中、無事にもどるよう気にかけていることでしょう。当時の私は、よくそんな想像をしました。
今なら、漁場にいる人から、家にだって簡単に通話もできます。しかしあの当時、漁船に無線機が備わっていたかどうか。なにしろこの私がまだ小学生だった時代の話です。遠洋航海の多い大船団ならとにかく、小さな村の漁船では、まだついていなかったのではないでしょうか。
一方、船に乗っている漁夫たちは、「さあ、今日も無事で帰ってきたよ」と、一刻も早く、家族に知らせたい。ましてや、今日は大漁。うれしいニュースを、家族だけでなく、村の人たちとも、分かち合いたい。
(その気持ちが、大漁旗を生み出したのか)
私ははじめて、漁村に暮らす人々にとっての、大漁旗の意味がわかったように思いました。
遠くからでもそれとわかる、大きな極彩色の旗。水平線から競うように浮かび上がってくる、その誇らしげな姿には、
大漁旗だけを見ても、この旗にどれほどの想いがこめられているのかまでは、とても気づきません。島暮らし、という体験のお陰で、私は自身の人生記録に、一つ、味わいのある知識を加えることができたと思っています。
この夜は、村の多くの家で、夕食には新鮮で味のいい魚料理が加わり、会話も弾んで、笑い声が響いたことでしょう。
◇◇◇
一つの村に住んでいると、知らず知らずのうちに、親密な共同体に溶け込んでゆく。はじめは戸惑いを感じた島の暮らしにも、いつしか愛着がわいてくる。しまいには私もすっかり島の子どもになって、裸足で海岸を駆け回り、日が傾くまで泳ぎ、そしてお呼びがかかれば飛んでいって綱を引いた。
あれから、長い長い歳月が流れました。今でもあの村には、変わらず大漁旗が潮風にはためいているのでしょうか。
引き続き、村の暮らしで深く心に残っているシーンを、続けて書きたいと思っています。それは、年に一度の村祭の記憶です。では本日はここまでで。(おわり)
人生旅日記・届け、大漁旗にこめられた想い 大谷羊太郎 @otaniyotaro
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