第11話 彼はこの時、夜の底から言葉を探しているようだった。

「変わった声だったよ」


 彼は、高校・大学と通してバンド仲間だった相手のことをそう評した。

 過去形だった。

 彼がそう意識しているかどうかは判らなかったが、彼がその友達のことを話す時には、必ず過去形だった。


「どういう声? ノセさんみたいの?」


 BELL-FIRSTのヴォーカリストの名を出す。すると彼は首を横に振った。


「あれとは別」

「じゃあ、どういう感じ?」

「格別いい声って言う訳じゃないんだ」


 だからどういう声なのか、と俺はその時珍しく彼に詰め寄った。


 六月。初夏から、次第に夏の色が濃くなってきた頃だった。陽射しが目にきつい。

 その頃彼は、時々バイクでライヴハウスに通うようになっていた。

 バイク――― バイクと言うべきだろうか? だが原チャリと言ってしまうには、それはややスタイリッシュな感じがしたが。

 淡い緑のパステルトーンのベスパ。50CCではないので、二人乗りもOKだというが、彼は断固として後ろに誰かを乗せることはしなかった。

 人間は乗せなかったが、楽器は構わないらしい。よくベースをかついで乗っていた。

 暑くなってきていても、彼は長袖シャツにゴーグルをかぶってそれに乗ってきていた。照りつける陽射しの下で長袖、雨が降れば合羽を着て。

 梅雨の合間の晴れた日には、目に痛い程の陽射しが照りつけ、夜になっても温度は下がらない。

 昼間に比べれば下がっているのだろう。

 だがむっとするというか、ねっとりしているというか、体中に絡み付く大気は、部屋の中ではむき出しにした腕に容赦なくまとわりついていた。


「何て言えばいいんだろうな―――」


 きんきんに冷やしたバドワイザーを呑んでいた彼はこの時、夜の底から言葉を探しているようだった。


「理屈じゃあないんだ。お前のやってるクラシック的に『いい声』なんかじゃ絶対ない。実際そう上手いという訳じゃあない。歌い出すと、時々音程も飛び上がってしまうことも多かった」

「それって下手って言わない?」


 ぽん、と彼は俺の頭を軽くはたいた。


「下手ね。そう、下手だったんだろうな。実際下手だったよ。そういう意味だったらな。だけど、そういうものでもないだろ? バンドのヴォーカルってのは」

「うん」


 さすがに三ヶ月、その大半の夜をライヴハウスと関わってくれば、それまでの狭かった見方も変わってもくる。


「そういうところじゃない、魅力があった声だったんだ」

「へえ」

「だけど俺も不思議だったことがあってね」

「何?」


 彼は少し考え込むと、クロゼットの中から何かを取り出し、聴いてみな、と俺の前に放り出した。データ音源だった。

 俺はそれを自分の端末に入れる。

 ひどく雑音だらけのそれは、室内で録音したものらしい。何やらごそごそと人が動く音が聞こえた。そしてこんこん、と音がすると、生ギターをかきならす音が聞こえた。

 明るい、でも少し切ないメロディが、でたらめ英語で歌われている。


「もう一個も聴いてみな。ライヴの奴」


 俺はデータを切り替える。と。

 声が、強く真っ直ぐ、耳に飛び込んできた。


「トモさんこれ、同じ人?」


 彼はそう、とうなづいた。


「そういう奴だったんだよ。マイクロフォンを通すと変わるんだ」

「そういうことってあるの?」

「あるの。と言うか、マイクを通ることで、まあ物理的に変わるという訳じゃないかもしれないけど、何かか変わるんだ」

「へえ……」


 確かに、その「マイクを通した声」は彼が魅力的、と言うのにふさわしかった。

 下手は下手なのだ。俺の知るテクニック的には。

 だが、確かに、何か引っかかるものがある。


「こういう声が好きだった?」

「好きだったよ」


 今でも好きなのか、と俺は聞きそうになって、やめた。

 ノセさんの声は、こういう声ではない。

 音源の中の人の声は、時々切れてしまいそうな程不安定な部分を残していた。一方の、ノセさんの声はもっと安定していた。周囲のテンションを急激に上げるとか、熱狂乱舞とか言う言葉とは全く無縁だが、安心できる声だった。

 だが音源の中のヴォーカルは。

 時々居る。そういう人は。

 耳に飛び込んだ瞬間、体温がコンマ1℃くらい上昇し、頭の中をかき回し、身体を勝手に動かしてしまうような。

 とても目の前の彼を見ていると、そんな声が好き、とは思えなかった。

 それでは昔と現在の声の趣味は違うのか、と問えばいいのだが――― 俺はそれを問うことはできなかった。

 もどかしかった。彼の態度もだが、そんな風にためらってしまう自分自身にも。

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