ピアノとベースとわらう雨と、それを教えてくれたひと。

江戸川ばた散歩

第1話 飛ばされたバイクの運転者は即死だったという。昨夜の事だ。

 BGM代わりにTVをつけておいたら、いつの間にかニュースの時間になっていた。

 割と近くの駅前で、バイクが酔っぱらい運転の車を避けようとして、ガードレールに突っ込んだらしい。飛ばされたバイクの運転者は即死だったという。昨夜の事だ。

 そんな画面を眺めながら、宅配の、シーズン限定のキワモノピザとチェリトスをコーラで流し込む。俺はなまけ者になりつつあった。

 きっと彼が、こんな今の俺を見たら、あの優しいけれど妙にきっぱりとした口調で、もっとマトモなものを食べろよ、と言うだろう。近くに居れば。


 すぐそばに居てくれれば。


***


「何してんの?」


 それが奴に対する俺の第一声だった。


「ああ助かった、マキノ? だよね。居て良かった~!」


 奴は大きく上に押し上げた窓に軽くよじ登ると、あっさりとピアノ室の中に入ってきた。

 放課後、四時過ぎ。

 いつものように、俺はピアノ室を占領して、好きな曲を弾き飛ばしていた。

 この時期、この時間にこの部屋を使う奴はそうそういない。

 コーラス部もブラスバンドも、それぞれの音楽室を使っているし、音大を目指す生徒は、この秋口には、こんな所で練習する余裕があったら、自宅で好きなだけ弾き続けるだろう。

 だから俺はその時、かなり驚いたのだ。窓は外から叩かれたのだから。


 ピアノ室のある三階の窓の外は、ベランダになっている。


 北側の新校舎のクリームを塗ったくったようなコンクリートの壁ではないが、そこはそこなりにしっかり作られ、ベランダに出たからと言って、危険なことがそうそうある訳ではない。

 だが、そこに生徒が溜まるのは、学校側としてはそう好ましいことではないらしい。

 従って扉は基本的に閉まっている。通行は非常事態に限られる。


「頼むマキノ、かくまってくれ!」


 そして、そんなベランダから来たクラスメートは、どうやら非常事態らしい。どうしようかな、と俺は黙って首をかしげた。

 だが奴は、そんな俺の対応など気にもしないように、さっさとグランドピアノの下にもぐり、ずるずるとした黒いピアノカバーの陰に隠れた。

 何から隠れているんだろう?

 年季の入ったわが校を体現している、緞帳のような黒いピアノカバーを俺は眺める。俺だったら好んでこの下に隠れたくはないものだ。

 やがて、扉の外から音を立てて、人のやってくる気配がした。

 俺はつとめて冷静に、ピアノの続きを弾き始めた。

 何となく今日は弾きたい曲があったのだ。朝、目が覚めたら、一つの曲が頭の中でぐるぐる回っていた。こういう時にはちゃんと、頭の中からその曲を出してやらなくてはならない。

 がらり、と引き戸が開く。

 俺は驚いて手を止めるふりをする。入り口からは、にこやかに、だけどよく通るきっぱりした声が聞こえてきた。


「お邪魔してごめんなさい。こっちに男子が一人やって来なかったかしら?」

「さあ」


 俺は素気なく、それだけ言った。

 彼女は一歩、中に入ると、そう広くもないピアノ室の中をぐるりと見渡した。そして、ごめんなさいね、と一言残すと立ち去った。

 彼女の足音が遠ざかっていくのを見計らったように、奴の声がした。


「助かった、ありがとう」

「それはどうも」


 奴はもぞもぞとピアノの下から這い出して来る。だが俺のピアノの手は止まらない。


「素気ないなあ。まあその素気なさのおかげで助かったんだけどさ。……それにしても、お前上手いなあ」

「うん?」


 俺は手を止めた。


「ピアノがさ」

「ああ…… 小ちゃい頃からやってはいるから」

「へえ、すげえの」


 俺は会話しながら、この妙に気さくなクラスメートが誰だったのか、記憶を探っていた。

 見覚えはある。

 基本、きちんきちんとした連中が中心のこの学校の生徒の中で、こんな、ネクタイをだらんと緩め、無造作に腕まくりしている奴はそういない。

 クラスメートということは判る。だけど名前が思い出せない。整った顔立ち。結構人気のある奴だということは覚えているのだが。

 そんな俺の様子を見て取ったのか、奴は苦笑しながら訊ねた。


「もしかしてマキノ、俺のこと、忘れた?」

「ごめん」


 さすがに俺も素直にそう言う。


「覚えていてくれよなあ。クラスメートなんだからさあ。カナイだよ、カナイ」

「あ、ああ、そぉか。仮名のカナイ君だったよなあ」

「そ、仮名文字のカナイ君でもいいのよ」

「OK、記憶した」


 俺は手を挙げる。


「ところでカナイ君、今君を追いかけていたのは、我らが敬愛する生徒会長ではないの?」

「俺の名知らなくとも、あいつの名は知ってるのね。悲しいわ」


 うるうる、と奴は顔を手で覆い、泣き真似までしてみせる。俺は呆れて肩をすくめた。


「そりゃあ、この学校初の女子の生徒会長だったら、嫌でも覚えるだろ?」

「まあね」


 奴は顔から手を外した。へらっとした笑顔がのぞいた。


「それに優等生。こないだの中間テストでもいい手ごたえとか言ってたしなあ。狙ってるのがお茶(の水)よお茶!」

「詳しいじゃないの」

「幼なじみなんよ。向こうが一つ上なんで、姉貴づらしてさあ」


 奴はピアノの上に片ひじをつくと、やや気怠そうにあーあ、と声をもらした。おや、と俺は耳を澄ませた。妙に耳に飛び込んでくる声だった。


「心配してくれるのは判るのよ、だけどなあ」


 カナイはそこで言葉をにごし、黙り込む。俺は再びピアノを弾き始めた。まだ曲は終わっていなかったのだ。

 しばらく奴はそれを黙って聴いていたが、やがて俺のそばにまで近付くと、譜面の置いてないことに気付いたらしい。


「何って言ったっけ、その曲? 何かひどく重いけど」

「さあ、タイトルまでは。忘れた」

「そういうもの?」

「まあね。結構手が覚えてるものだし」


 それは本当だった。タイトルはともかく、その曲は結構昔から練習した中にあったはずだ。だからこそ、勝手に頭の中で鳴り響くのだろう。


「ま、いいさ。とにかくかくまってくれてありがと」

「どう致しまして」


 俺はひらひら、と手を振る奴に、そう返した。

 カナイはピアノ室の扉を開けると、一度きょろきょろと辺りを見渡し、そしてそっと扉を閉めた。意外にデリカシイはある奴らしい。

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