元婚約者の姉になる
同画数
第1話 私の弟を紹介します
「...!、...えさま!、おねえさま!」
子供特有の高い声がたどたどしく言葉を紡ぐ。
自分の存在を懸命に主張するように声を上げる。
自己を認めてもらうために、自分に目を向けてもらうために、それはまた子供特有の無垢なソレなのだろうか。
静かだった図書館の扉が開く音とともに騒々しくなる。幼い子ども達が沢山入ってきたようだ。
小鳥が囀るような音が耳の奥、鼓膜に続く道を跳ね返り、揺れる。
新しい風によって
他の子と一緒に入ってきたはずなのに私を見つけ何の躊躇いもなくその集団から離れる。その他と紛れながらもそのどれとも異なる、一等目を引く彼は始末が悪い。
一言で言えば特異な、異質なものだ。
ひどく惹き付ける。
視線も自由であるはずの心をも。
縛り付けるような強引なものでなく、まるで無償の愛のような、知れず心に侵食するようなそれを求めて自分自身を抑制することを投げ打ってしまいそうになる。そんな一種の快楽。
酒に酔うように、肉欲に溺れるように、金を求めるように、愛に縋るように、本能を揺さぶり美しいものを愛する気持ちを突き動かされる。
先程の声を上げたのはそれはそれは可愛い顔をした私の弟だ。
ぬばたまの黒髪。生きることを楽しむように一本一本がつるりとした艶めきを持つそれは、生気をランプの中に押し込め火を灯したように輝きを放つ。持ち主の動きとともにヒラリふわりと優雅に宙を舞い、近くにいる人々にも遠くにいる人々にも慈悲深くも平等にその美を囁く。
朝露を受け花開く瞬間の蕾が綻んだ百合の
頬はその美しい肌の下で脈々と流れ続ける
その様はまるで童謡で謳われる白雪姫のようだ。
また、瞳は空よりも広く海よりも深く、森羅万象の神秘を隠し持ち、一度それと絡まったならばその心まで同時に絡め取ってしまう魔が妖しく漂い、神秘が
付き合いのある貴族との交流で彼を一目見た者は必ず、多くの比喩を用いそれでも言い尽くせないと感嘆し、今の彼の幼げで可憐な容姿から想像される、成長した彼の端麗な容姿を大きく期待し褒め讃えるのだ。
今の小さな少年は性別を超越した美しきモノであるが、成長してなお、性別を超越して神秘的な世界の住人としてただ益々匂い立つ妖しい花の蜜のような妖気を纏う色づいた香りを漂わせいるのか、もしくは神が新たな性を授かることをお許しになるのでは!など皆が皆好き勝手に噂する。
この世に生まれ落ちたとき授かった彼の性は紛れもなく男だというのに、白雪姫の生まれ変わりだなどの噂もあり、その噂のせいで彼の性を間違って認識してしまってる貴族もいるという。
実際彼に会ってもそれはそれは丁寧に接し、まるで令嬢のように彼を扱う人もいる。
先程の私が話した弟の容姿の説明は特に名の知られた優秀な詩人が弟に会った瞬間にその美しさに心を震わせ、美しさを褒め称えるために用意された膨大な頭の中にある既存の比喩のうちの一つであり、詩人が長々と口にした詩の長い長い一節のうちのごく一部で最初に口から零れたモノだ。
正直に言えば詰め込みすぎだと思う。
てんやわんやな聖夜の豪勢なディナーみたいに重くて豪華で複雑だ。
それでもそれを言い過ぎだとは言えない。言い得て妙だ。いや、言い足りないとすら人に思わせる。観ていると無尽蔵に賞賛の言葉が溢れ出てくるそんな人間が私の弟だ。
弟の端麗な外見を表すのに必要な言葉を持ちえなかった詩人は既存の言葉を組み合わせその美しさを言葉に収めようと大層頭を悩ませ苦しみ考えた。
「既にある言葉では言葉に出来ない。」
詩人はその末にとてもシンプルな言葉を送った。
詩人は割と早くにそれに気づいた。
だが諦めきれないとでもいうように、詩人としての矜持のためか、それとも美に対する純粋な思いかは分からないが、持ちうる全て、詩人としての武器である言葉で弟の容姿を表そうと永遠の課題に対峙した。
弟の容姿は、詩人に使い古された陳腐な言葉でしか謳えないことを酷く嘆かせるほどのモノだった。
まさに絶世。美の化身だそうだ。
彼が今までその巧みな言葉で築いてきた地位が詩人であり、詩人とはその言葉で世の人々の心にものを訴え、その感性を巧みな言葉を持ってこの世の表現しえないものに情緒的な言葉を与えるものであるにも関わらずこれではその義務を放棄したようなもの、確かに名折れである。
私は全くもって詩人に同情する。
たとえその詩人と絶世の美少年の出会いと同じ空間にいたにも関わらず姉の私にはちらりとも見向きもしなかったとしても。
その出会いに感激して夢中でブツブツと弟の容姿の賛美の言葉を述べる詩人に美しい弟が早々に飽きて私に抱き着いてきてその時初めて詩人が私に気づいた、とでも言うように目を丸くしても。
その後挨拶もせずにすぐにまた弟の賛美の言葉を考えるために詩人の意識の外に追いやられても。
詩人は気の毒だった。
時間が経てば経つほどその生まれ持っての鋭く、長年の経験によって磨かれた柔軟な感性で詩人を生業としてとして食べてきた彼にとって絶望的なほど大きな壁が立ちはだかったのだから。しかもそれはその時だけではなく彼の一生の人生に憑いて回る暗い影なのだから。
私は詩人の舐めるように不躾な視線に晒されそれを不快に思わないほどにそのような人間に慣れてしまった幼い弟の方がどうかと思った。
弟は私に抱き着いている。視界に入っているはずなのに姉の私など背景のように関心を向けず、弟にしか意識が向いていない詩人の集中力は凄まじい。
『今日は大丈夫な気がするからぁ、ねぇ?お願いっ』
そう言って弟の嫌がる種類の後味のスッキリとした爽やかな茶葉で淹れた紅茶を飲む私にその紅茶を
私が給仕メイドを呼んで同じものを用意させようとする間に勝手に人の飲みかけのカップに口をつけるのはご愛嬌。
『あっつい!むぅ、それにスースーするぅ。全然おいしくない...!』
そのまま紅茶を私に突き返す。
自分をガン見する人間が目の前にいて媚びない弟の大物感も負けじと凄まじいものだ。
美に思いを馳せながら瞑想しているのか迷走してるのか目をギラギラと光らせながら凄まじい詩人の目の前で、可愛らしく唇を尖らせているのはこれまたなんの張り合いか。
私はマーマレードを紅茶に溶かしながらを気まずい思いをした。
それでも甘えてくるヨハンの頭を撫でると柔らかい触り心地が一時の心の慰めとなる。
その場違いな空気は私にとってはひどく決まり悪いもので、マーマレードが溶けた後も暫くクルクルとティースプーンを回して気まずい時間が過ぎ去るのを弟を適当に相手にしながら待ってみたりもした。
その後マーマレードで少し冷めた紅茶を私が飲んでいるとまた弟に強請られた。
一口飲んでまた突き返された。
“香りがダメなら最初から飲まなければいいのに...。”
大丈夫だと言って、大丈夫だったことなんてないのだから。
思いながら弟の好きな茶葉の紅茶を給仕メイドに用意するように伝え、私は弟に突き返された紅茶を黙って飲んだ。
今日も紅茶は美味しい。
詩人に弟の容姿を表現してもらうために家に招待した訳じゃないのに、詩人はずっと夢中になって弟に熱い視線を送りながら溢れ出る言葉の数々を書き留めていた。
私は男も女もその性別の隔たりなく
弟の容姿は可憐で愛らしい天使のようだが、“血のように”なんて毒々しい言葉すら似合ってしまう妖しい魅力が、10年もこの世を生きていない純粋な幼子から微かだが漂っている。
複雑に入り交じった曖昧な魅力を言葉に表すのは実に難しい。
そんな弟は貴族達が社交の場で必ずと言っていいほど話題に上げることが繰り返され、彼のその風貌は
一時は詩人も匙を投げたその美しさをどれだけ表現出来るかと可笑しな娯楽も流行ったことも彼の噂が広く世間に知れ渡るのを助けた。
弟は天使のように愛らしく可憐で将来の美貌を約束されていると言われ、大人になった時、彼がこの世の美の原石だったものが磨かれ真の宝玉になると一方では言われ、もう一方では美人薄幸の言葉のようにその理想は儚くも脆く崩れ去るとも言われている。
美の神の嫉妬を買い、途中でその道は閉ざされるかもしれない。
もしくは悪魔の子だ、とも。
可愛いのは幼いうちだけだ、と
そして、いつかその身に受ける嫉妬で身を滅ぼすとも。
個人の将来の幸不幸を勝手に予想して、憶測は憶測を呼びまだ十にも満たない幼子の将来を皆が知る共通の話題として茶会のお菓子のごとく散々にトッピングして客を
随分なことだ。
いつの世も暇を持て余した貴族様は相変わらず享楽、娯楽に飢えているようだ。
だが、どれだけ噂されようが彼が美しく成長することは約束されているのだ。
悪魔に魂を売り払うことで得たかと思うほど凄絶な美しさを身の内に閉じ込め成長した彼の視線と絡んだ時、私は心を絡め取られた。
前世で彼と出会い恋を知り、彼だけを想い慕い、なす術なくズブズブと深みにハマった私がそのようにいうのだからこれは確かなことだ。
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