金魚が「あと30分で世界は終わるヨ!」と喋った。

金魚が「あと30分で世界は終わるヨ!」と喋った。

 金魚が「あと30分で世界は終わるヨ!」と喋った。


 空耳かもしれない。四半世紀この世界で生命活動を続けている私の経験則からすると、金魚は喋らない。金魚の脳は抽象的な言語を操れるほど発達していないし、そもそも魚類は声帯を有しない。


「あと30分で世界は終わるヨ!」


 やはり金魚鉢から声がしている。私は形式的な深呼吸をひとつして、便宜的に心を整えた。


 金魚が喋っている。


 仕方ない。受け容れるしかない。どうやら私が飼育している金魚は人間の言葉を使えるらしい。私の人生経験だってそれほど豊富なわけじゃない。勉強不足な事柄は山ほどあるし、世界は謎で満ちている。とにかく、現に、目の前で、金魚は喋っているのだ。


「あと30分で世界は終わるヨ!」


 目覚まし時計みたいに同じ言葉を繰り返している。それしか喋れないのだろうか。低能な金魚だ。会話はできないのだろうか。


「本当に?」


 馬鹿馬鹿しいと思いつつも私は尋ねてみた。誰かが見ていたら頭が狂ったと勘違いされるかもしれない。でもそれをいうのなら、そもそも金魚が喋るのだってじゅうぶんすぎるほど狂っているのだ。誰も私を笑えないはずだ。まあ、女の一人暮らしのこの部屋に存在する生物は、金魚と私だけだ。もっとも、どこかしらの狭くて暗い空間には、ゴキブリやらハエやらクモやらその他小さな生き物たちが潜んでいるのかもしれないけれど、とにかく人間は私一人だ。誰にも笑われる心配はない。


「本当だヨ!計算したんダ!」

金魚が返事をした。会話も計算もできるらしい。賢い金魚だ。

「あと30分で世界が終わるだなんて、信じられない」私は至極真っ当な発言をする。怪しげな占い師が20XX年に世界滅亡!と宣言するのでさえほとんどの人間は信じないのだ。金魚があと30分!とのたまうのを信じる人間などいない。もしそれを鵜呑みにする人がいるとすればそいつはよほどのお人好しか、あるいはうっかり変なキノコでも食べたのだろう。


「10分後に大地震だヨ! 計算しタ!」

「どこで?」

「世界のどこかデ!」

「どこかって、どこ?」

「どこかデ!」


 10分後に大地震。なるほど。どうやら金魚は、まずは地震が発生する時刻を言い当てることで、自らの予言の正しさを認めさせようとしているらしい。しかしそれが発生する地点まではわからないらしい。あるいは、本当は知っているのに教えるつもりがないのかもしれない。生意気な金魚だ。


 私はとりあえず、さっきまで読んでいた推理小説の続きを読み始めた。念のため、頭上や身体の近くに、落ちてきたり倒れてきたりするものがないのを確認した。

 活字を目で追ってはいるものの、予言が脳内にしつこくこびりついたせいで、内容はまったく頭に入ってこない。何度もスマートフォンで時刻を確認する。午前10時04分。

 金魚が最初に喋ったのがちょうど午前10時00分だった。だから午前10時10分頃に大地震が起きるはずだ。もし仮に金魚の言うことが本当ならば、だけれど。


 まったく内容を理解できない推理小説を読み進めるのをあきらめ、コーヒーでも淹れようと思い、椅子から立ち上がった瞬間だった。世界が揺れた。


 部屋が揺れデスクが揺れ椅子が揺れテレビが揺れた。冷蔵庫が揺れ洗濯機が揺れ電子レンジが揺れオーブントースターが揺れた。金魚鉢の水は波を打ち舞い上がり、4分の1ほどが外に溢れてデスクを濡らした。


 揺れは数十秒でおさまった。時刻を確認する。午前10時11分。金魚の予告通りだ。


「ネ! 本当だったでしョ! 計算どおリ!」

金魚は言った。心なしか嬉しそうな響きを含ませている気がする。気のせいかもしれない。


 しかしこれは、と私は軽く絶望する。


 認めざるを得ない。金魚は地震発生時刻を正確に予言した。そしてその正確な予言能力を有する金魚は、まもなく世界が滅亡すると宣告している。


「世界はどのようにして滅亡するの?」

「爆はツ!」

「爆発?」

「もうすぐ地球の中心が爆はツ! 地球こなごナ!」


 金魚いわく、まもなく地球の中心が爆発して粉々になり世界は滅亡するらしい。金魚が最初に「あと30分で世界が終わる」と告げたのはちょうど午前10時00分だった。つまり午前10時30分に世界は終わる。


 テレビをつけてニュースでさっきの地震の震源地を確認しようとしたのだけれど、すぐに考え直してやめた。私はもう金魚の予言を信じてしまっていた。「もうすぐ世界は終わる」。テレビなどを眺めている暇はない。


 心の底では最初から信じていたのかもしれない。金魚が喋るなどという異常現象が発生しているのだ。世界が滅亡しても不思議ではない。

 いやむしろ、と私は考える。滅亡が近づいているせいで世界のルールが乱れ壊され異変が生じ、その影響で金魚が喋るようになったのかもしれない。その理屈は普通に考えればあまりにも突飛だったが、なぜか私の脳味噌に自然に浸透した。


 結局のところ、信じたくない現実を信じざるを得ない状況に置かれ、納得したくない理屈を納得せざるを得ない状況に置かれた、ただそれだけの話だった。


 スマートフォンで時刻を確認する。午前10時13分。あと17分で世界は終末を迎える。


 あと残り17分、私はどのように過ごせばいいのだろう? 皮肉なものだ。いつも忙しいだの時間がないだのと愚痴を吐いているくせに、こんな時にするべきことは何も思いつかなかった。


 そういえばさっきはコーヒーを飲もうとしていたんだっけ。私は冷蔵庫の扉を開き、コーヒー豆に手を伸ばしかけた。しかし思い直してコーヒーの代わりに赤ワインを取り出した。栓を開け適当なグラスに注ぎ、ひとくちで半分ほど飲んだ。世界の終末における意識の状態としては、カフェインによる覚醒よりもアルコールによる酩酊のほうがふさわしい気がした。


 さっきまで読んでいた推理小説を本棚に戻した。これ以上読んでも意味がない。あと十数分では到底最後まで読めない。密室殺人の謎を解き明かさぬまま死ぬことになるのはいささか残念だけれど、たぶんあの女執事が犯人だろう。そうに違いない。いちばん怪しくないのがいかにもいちばん怪しい。


 椅子に座る。ワインをひとくち飲む。スマートフォンで時刻を確認する。午前10時20分。あと10分。


 思い立ってメッセージアプリを開く。父親と母親に「今まで育ててくれてありがとう」とメッセージを送信する。それから少し悩んで、高校時代の同級生の男の子に、「ずっと好きだった」とメッセージを送信する。何人かの友人たちにもメッセージを送りたかったけれど、きりがないのでやめた。残された時間は限られている。


 メッセージを送った男の子とは、高校三年間を通して親しくしていた。三年連続して同じクラスに配属されたし、学校外でも何度も遊んだ。映画館とか水族館とか遊園地とか洒落たカフェとか。健全でありきたりな高校生のデート。でもそこには、単なる友達以上に深い関係があったと思う。それは私の思い上がりではないはずだ。彼も同じように感じていたと思う。たぶん。

 しかし私たちは恋人どおしにはならなかった。高校生にしては私たちは幼すぎたのかもしれない。あるいは彼が東京の大学への進学を志していたのも関係しているかもしれない。彼は努力の甲斐あって志望校に進学し、私は地元に残った。それでも私たちは電話やメッセージアプリで連絡を取り続けていた。そして、彼が地元に帰省する度に喫茶店や居酒屋で会った。その関係は就職してからも続いた。彼はどんどん大人の男性らしくなっていった。私も大人の女性らしくなっていった、はずだ。

 私たちはお互いに、何人かの別の異性と交際したこともある。しかしどれも長続きはしなかった。

 また別れたんだね。うん。上手くいかないもんだね。なかなかねえ。そのうちいい人に会えるよ。そうかな。君はモテそうだから。そんなことないよ。

 どちらかが恋人と別れる度に、そういう会話を腐るほどした。


 スマートフォンで時刻を確認する。午前10時23分。あと7分。


 両親と彼はメッセージを読んでくれるだろうか。彼らはもちろん喋る金魚なんて飼っていないだろうから、あと7分で世界が滅亡することなど想像だにしていないはずだ。そうであれば、私から届いたメッセージを急いで読まなければならない理由はない。もしかしたら、メッセージは読まれることなく世界と共に消滅するかもしれない。いや、むしろその確率のほうが高い。私は両親への感謝も彼への好意も伝えられないまま死ぬかもしれない。本来であれば電話をかけるべきなのかもしれない。でも、今の精神状態で電話をかけても、私はまともに話せそうにない。


 私は、私たち地球人の死に様について考えを巡らせる。金魚は「地球の中心が爆発して粉々になる」と言った。そうであれば大半の人間は爆発の衝撃により即死するはずだ。その死にかたはそれほど苦しくなさそうだ。

 いやしかし、とまた考える。金魚の言う「粉々」はあくまで誇張的比喩表現であり、実際には「真っ二つ」とか「ひび割れ」程度の爆発である可能性もあるだろう。そうであればもっとひどい苦痛に満ちた死にかたも想定しなければならない。たとえば地面から噴出した溶岩に身体を溶かされるだとか、空気の層が壊れて真空に放り出されて窒息するだとか。それ以外にも、私の想像力なんて遠く及ばないほどにひどくむごたらしい死にかたもあるだろう。


 地球が終末を迎える前に飛び降り自殺でもしようか。いや駄目だ。飛び降り自殺だって決して少なくない苦痛を伴うだろうし、何よりも勇気がない。自殺は非常事態に直面した場合の最終手段だ。終末が私たち地球人に与える選択肢が「ひどくむごたらしい苦痛に満ちた死」一択しかないと判明するという、これ以上ないほど最悪の「非常事態」に直面した場合の最終手段。


 赤ワインを飲もうとしてグラスを手に取る。よく見ると、グラスのなかの赤い液体が微かに揺れている。また地震だろうか、と一瞬警戒するがすぐに勘違いに気づく。揺れているのは私の手だ。手が震えている。


 なぜか、息苦しくなってきた。肺が乾いて痙攣しているような感覚に陥って、呼吸をするのが辛い。というより、呼吸ってどうやるのだっけ? 今まで私はどうやって呼吸していたのだっけ? のどの奥にねばねばした塊がつまった感じがする。苦しい。吐き気を催してきた私はうつむいて、両手でスマートフォンを握りしめた。液晶画面が手汗でべたついて、ちらちらと光っている。気づくと視界が滲んでいる。


 泣いている? この私が? おかしい。こんなのはまったくもって私らしくない。私はもっとクールな人間だったはずだ。家族や友人や同僚にもよくそう言われる。私は、周囲からしばしばもらう自分に対する評価を頭のなかで並べてみた。クール、冷静沈着、頼れる、落ち着きがある、達観している、悟っている…


 しかしそんな評価をどれだけ精一杯並べ立ててみても、終末を前にしてはこれっぽっちも役に立たなかった。現実の私は、狭い部屋で独りみっともなく肩を震わせて嗚咽を漏らしていた。


 こんなことになるのなら、金魚なんて飼うんじゃなかった。どうして自分で飼育する魚に死を宣告されなければならないのだろう。金魚なんて飼わなければ、何も知らぬまま最期を迎えられたはずだ。そっちのほうがよほど良かった。そっちのほうがよほど楽だった。


「泣いていル?」

金魚が尋ねた。金魚が質問したのはこれが初めてだ。魚が人間に質問するなんて生意気だ。

「うるさい」

私はボトルをつかんで持ち上げ、金魚鉢の上で傾けた。赤ワインが鉢をめがけてねじれながら落ちる。ばら色の液体が透明な水と混ざる。水がうす赤く濁る。中途半端な濃さを備えたその液は、生命力に欠けるひ弱な生き物の血みたいに見えた。世界の終わりを告げる金魚なんて、アルコールで死ねばいい。


「旨イ! でももう少し辛口のほうが好キ!」と金魚が言った。生意気だ。どこの世界にワインの味に注文をつける魚が存在するのだ。ああこの世界か。もうすぐ終わるこの世界か。


「ばかみたい」

私はつぶやいた。喋る金魚も、泣く私も、もうすぐ終わるこの世界も、みんなばかみたいだ。


「泣かないデ!ワイン旨かっタ!」


慰めているのだろうか。魚に慰められる人間。前代未聞だ。屈辱的だ。


 しかしそれでも不思議なことだ。私は金魚に慰められたおかげか、徐々に落ち着きを取り戻していった。「慰め」の効果は人間に限定されない生物共通のものなのかもしれない。


「ありがとう」

私は感謝を伝える。死ぬ前に、世界が終わる前に、せめてこの生意気な金魚にだけでも、自分の気持ちを伝えておきたかった。


「どういたしましテ!」

金魚は言った。


 私は深呼吸をして、身体に新鮮な酸素を送り込む。穏やかに終末を迎えるために。


 グラスを手にとってワインをひとくち飲む。手の震えはだいぶ小さくなっている。

 スマートフォンで時刻を確認した。午前10時26分。あと4分。


 私は目を閉じ、これまでの人生を振り返った。意図的に走馬灯を見るように。


 私は両親が共働きだったために保育園に通っていた。保育園でいちばん仲が良かったのはユキちゃんだった。ユキちゃんはとても強い子供だった。精神的にも、肉体的にも。乱暴な男の子たちに対しても臆せず接した。その頃の私は気が弱くて、いつもユキちゃんの陰に隠れていた。保育園の近くには小さな教会があった。教会の屋根は青くて三角で尖っていた。私たちはしばしば教会までお散歩した。

 小学校では私はいくらか活発な子供になった。休み時間にはグラウンドに出て鬼ごっこやらドッジボールやら縄跳びやら一輪車やらに励んだ。四年生のときの田中先生が優しくて好きだった。歌が苦手な私に個人的に練習をつけてくれた。それでもどうしても上達しない私に、田中先生はこう言った。合唱コンクールなんて口パクでいいのよ、と。こんな大人もいるんだ、と不思議な感銘を受けたのを覚えている。

 中学と高校では勉強を真面目に頑張った。将来、どうしても就きたい職業があったから。そして無事私はその職に就いた。まあ、もうすぐ死ぬのだけれど。高校では彼に出会った。彼との思い出は…いや、それを振り返るのはやめておこう。感傷的になりすぎてしまう。

 そして私はいつのまにか大人になって…


 私は目を開けた。スマートフォンで時刻を確認する。午前10時28分。あと2分。あと2分で世界が終わる。これは本当に本当の現実なのだろうか? あまりにも実感が湧かない。私は思わず尋ねてしまう。


「ねえ、本当に10時30分に世界は滅亡するの?」

「うン!10時30分に世界は滅亡すル!」


 冷酷に的確に事務的に無機質に金魚は終末を告げる。

 ふと、金魚自身は死ぬのが怖くないのだろうか、と今さらどうでもいい疑問を抱いた。しかし少しばかり頭を働かせればその疑問はすぐに解消した。

 魚には、「もうすぐ死ぬ」という事態の意味が理解できないのだ。将来の出来事を想像してそれに対応した感情を抱く能力がないのだ。私は金魚を羨ましいと思った。それはそれで幸福な生き方かもしれない。金魚鉢という狭く閉じられた世界で、未来に期待したり憂いたりせず、つねに現在だけを見据えて生きるというのは。


 私はスマートフォンで時刻を確認した。10時29分。あと1分。あと1分だ。


「ねえ」

私は語りかける。

「なニ?」

金魚が反応する。

「私に飼われて、あなたは幸せだった?」

私は尋ねる。

「幸せって、なニ?」

金魚は尋ね返す。私は戸惑う。幸せってなんだ?

「よくわからないけド…」

金魚は続けて言う。

「毎日くれたご飯は旨かっタ!ワインも旨かっタ!鉢も綺麗に掃除してくれタ!それで満ぞク!」

「そっか」


 私はまた目を閉じる。もう、最期の時まで目を開けることはないだろう。

 色々なことを考える。自分のこと、金魚のこと、世界のこと、両親のこと、友人のこと、仕事のこと、彼のこと。本当に色々なことを考える。同時に全てのことを考える。でもそれは、何も考えていないのにも似ている。無心になるのにも似ている。私は世界を感じる。この世界に生きているのを感じる。自分が存在しているのを実感する。これまで感じたことがないくらいに、明確で綺麗な輪郭を持って自分の存在を感じる。そしてそれはやはり、輪郭なんて取り払って世界と馴染んで一体化してしまうのとよく似ている。目を閉じてからずいぶんと長い時間が経った気がする。私は悟る。世界と一体化して自分の存在を感じている命の前では、時間なんてたいした意味を持たないのだ。その時間は、一瞬であり、同時に永遠なのだ。私は目を閉じたまま、永遠の時間をくぐり抜ける。どこまでも遠くまで。どこまでも静かに。…それにしてもあまりにも長すぎる気がする。私は恐る恐るそうっと目を開ける。念のためスマートフォンで時刻を確認する。午前10時38分。ん? 38分?


 私は窓の外を見た。地面は割れていないし溶岩は噴出していないし嵐も吹き荒れていない。空は雲ひとつない快晴で、街路樹の葉はそよ風に揺れ、小鳥たちは楽しげにさえずっている。


 私は金魚に尋ねる。

「ねえ、世界の滅亡は午前10時30分だったよね? 今38分なんだけど…」


金魚は答える。

「どうやらほんのちょっぴり計算間違いをしたみたいダ!滅亡までもう少し時間があるかもしれなイ!少し待テ!計算し直ス!」


 計算間違い? もう少し時間がある? 


 私は動揺する。さっきまで死を迎える心の準備はできていたのに。もう少し時間がある、などと言われてしまっては、つい期待してしまいそうになる。もう少し時間があるのなら、もう少しだけ何かやり残したことをやり遂げようなどと、希望を持ってしまう。いったいどれほどの猶予が残されているのか。私は金魚の計算が終わるのを待つ。心臓がさっきまでとは違った弾みかたをしている。絶望ではなく、緊張と期待の鼓動。こちらのほうがよっぽど心臓に悪い。そして金魚は、本当に正しい滅亡の時刻を告げた。


「わかっタ!世界の滅亡は、あと147年と29日と2時間と49分後ダ!」


147年後。


 なるほど。147年後か。確かに「ほんのちょっぴり」計算を間違えたみたいだ。


「おい」

私は話しかける。

「なんダ!」

金魚は応じる。

「お前ふざけるなよ」

「ふざけてなイ!147年なんて誤差の範囲内ダ!」


金魚はあくまで147年は「ほんのちょっぴり」の「誤差」だと言い張るらしい。こいつふざけてるな。鉢の水全部抜いてやろうか。

 

 いや、どうだろうか。私は思い直す。地球が誕生したのは今から約46億年前だとされている。地球の歴史から見れば、確かに147年というのは誤差の範囲内なのかもしれない。それでも147年もあれば私は普通に寿命を全うするだろう。世界と比較すれば人間の一生なんてほんの一瞬だということか。さらに言えば、147年もあれば私自身どころか将来私が産むかもしれない息子や娘だってじゅうぶんに寿命を全うできる。それ以降の世代は微妙なところだが、今そのことを考えるのはよそう。とにかく私は生きている。私は生きているのだ。

 力が抜け、口をばかみたいにぽかんと開けて、斜め上をぼんやりと眺めた。しばらくは微動だにできそうにない。


 そうやって放心していると、デスクの上でスマートフォン鳴動した。母親からの電話だ。


「あなた大丈夫? さっきそっちで地震があったでしょ?」

そうだ、地震。地震は確かに起きたのだ。金魚はその発生時刻を正確に予言した。だからこそ私は金魚の声を信じたのだ。金魚は「大地震」が起きると言っていた。私は母親にこちらの状況を報告し、さらに震源地を尋ねた。

「こっちはなんとか大丈夫。確かにけっこう揺れたけど、家具が倒れたりはしなかった。そっちは大丈夫? というか、地震ってどこで起きたの? 震源地はどこ?」

「あなたニュース見てないの? 震源地はまさにあなたが住んでるその町よ。だから電話してるんじゃない」


 震源地はまさに私が住んでいるこの町?確かにここもそれなりに揺れたけれど、大地震というほどのものではない。


 まさか。私は事態の真相を理解し、驚愕し、確信する。


 金魚は、地震の規模まで「計算間違い」を犯したということか。震源地はこの町だったし、規模も大したものではなかったのだ。確かにこの部屋はそれなりに揺れたけれど、それはちょうどここが震源地だったからだ。世界的に見れば大地震でもなんでもない。日本では珍しくない程度の規模の地震だったのだ。

 こんなことなら地震が起きた時点でニュースを確認しておけばよかった。そうすればその時点で金魚の予言があてにならないことに気づけたはずだ。


 私は金魚を睨み付けた。金魚は沈黙を決め込んで優雅に泳いでいる。まるで私の怒りなんてどこ吹く風、といった様子だ。本当に生意気な金魚だ。まじでこいつふざけてるな。揚げて食ってやろうか。


 それにしても、心配してくれる親がいるというのはありがたいことだ。

 それから私は電話で母親と久方ぶりの会話を交わした。


 あなた本当に大丈夫?大丈夫だよ。さっき遺書みたいなメッセージが送られてきたし。ああ気にしないで。お父さんにも連絡しときなさいよ。後でしとく。実家にはいつ帰ってくる?正月には帰る。ちゃんと野菜も食べてる?食べてるよ。彼氏はできた?今はいない。


 母親との通話を終えると私は金魚を見た。金魚は呆けたように口をぱくぱくさせている。


「おい。あんた」


金魚は喋らない。


「計算間違えすぎでしょ」


金魚は喋らない。


「あんたのせいで無駄にどきどきしちゃったよ。心臓に悪いよ」 


金魚は喋らない。


「おい?金魚?」


金魚は喋らない。口をぱくぱくさせて、鉢のなかをぐるぐる泳ぎ回っているだけだ。


 金魚は喋らない。四半世紀この世界で生命活動を続けている私の経験則からすると、金魚は喋らない。金魚の脳は抽象的な言語を操れるほど発達していないし、そもそも魚類は声帯を有しない。ついさっきまで喋っているような気がしていたが、きっと空耳だろう。当たり前だ。金魚は喋らない。


 私はしばらくのあいだ金魚を見つめていた。どのくらいそうしていただろうか。10分かもしれないし、1時間かもしれない。とにかくしばらくのあいだそうしていた。それでも金魚は喋らなかった。口をぱくぱくさせて、鉢のなかをぐるぐる泳ぎ回っているだけだ。一人暮らしのこの部屋には、生物は私と金魚しかいない。そして喋るのは私一人だけだ。部屋は、肌に突き刺さって痛むほどの静寂に支配されていた。


 そうしていると、またしてもスマートフォンが鳴動し静寂を断った。今度は通話ではなくメッセージだ。その送り主を確認した瞬間、心臓が跳ねた。彼からだ。そうだった。私は彼に「ずっと好きだった」と送信したのだった。最悪だ。金魚にだまくらかされて世界が滅亡すると誤解して勢いで愛の告白をしてしまった。古今東西見渡してみてもこれほど馬鹿げた悲劇は見当たらないだろう。

 

 恐る恐る彼からのメッセージを読む。


「俺も。実をいうと今でも」


 俺も。実をいうと今でも。

 

 私はそのメッセージの意味を上手く把握できず、何度も読み返した。丁寧に心に染み渡らせるように。


 ずっと好きだった。俺も。実をいうと今でも。ずっと好きだった。俺も。実をいうと今でも。ずっと好きだった。俺も。実をいうと今でも。


 遂に私は声に出す。


「俺も。実をいうと今でも」


 一人暮らしの静かなこの部屋に、私の声が響く。その声の半分は驚愕で、もう半分は歓喜で構成されている。私はもう一度声に出す。声に出せば、その内容がもっともっと確かな真実になる気がして。


「ずっと好きだった!俺も!実をいうと今でも!」


「ラブラブだナ!」


 金魚が喋った。


 そう、金魚は喋る。生意気な金魚だ。


おしまイ!


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金魚が「あと30分で世界は終わるヨ!」と喋った。 @mame3184

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