09 先輩の夢?

 放課後、僕は公民館を訪れた。いつもどおりスマホをいじっている事務のお姉さんと顔を合わせ、いつもどおり第四和室の準備をし、いつもどおり九先輩が来た。


 そして新作のクイズを見せた。


「先輩、持ってきました」


「では拝見させていただくわ」


 結局、容易に正解されてしまった。それもいつもどおり。


「また明日、かしらね」


 答え合わせを終え、先輩は余裕の態度でリュックからノートPCを取り出した。


 僕は頭を抱えつつ悔しまぎれに尋ねた。


「ところで……もしかして先輩がストレッチするのも、外出するのと同じ理屈で、問題を解くためにやってるんですか?」


 今日は久しぶりにストレッチを拝むことができた。現在の彼女は、すでに座布団の上で姿勢を正している。


「ええ、そうよ。考えても答えがすぐ浮かばない時は、一度リラックスして身体の副交感神経が優位になる状態を作るといいらしいわ。そうすると、アイディアがひらめく可能性が高くなるそうだから。身体を動かして血行も良くなるし、一石二鳥だと考えて始めたのよ」


「へえ」


 本当にナゾ解きのことばかり考えているんだなあ……。


「知的作業を行ううえでは軽視されがちだけど、身体を動かすことは、存外だいじなことなのよ」


 先輩はそう言うとノートPCをゆっくりと開き、何か作業を始めた。室内はしんと静まった。


 アイディア、か……。


 僕は座卓に突っ伏した。腕の隙間から、ぼんやりと先輩の方を覗き見る。ちょうどノートPCのモニター部分が壁となり、彼女の視線が隠れた。創造性の象徴ともいえるリンゴのロゴマークに、門前払いをされている感じだ。


 マウスを操作する手が見える。彼女は小さなマウスを、『猫の手』みたいな形で包んでいる。包丁をあつかう時の、素材を押さえるほうの手の形だ。


 猫の手か……そういえば先輩って、料理とかできるのかな。


 などと、エプロン姿の彼女をぼんやり妄想しはじめた時だった。


「私は電子機器が一般化し、あらゆるものがデジタル化されている現代においても、人間が肉体を持っている以上は、アナログツールの重要性を軽視すべきではないと思うの」


 先輩が唐突に、持論を展開した。


「そ、そうですね!」


 僕は慌てて顔を上げた。彼女はモニターに目を向けたまま、ゆっくりとうなずいた。


「デジタル式コンピュータがこの世界に産声を上げたのは、一九四〇年代だそうよ。それは私たちの生活をこうして一変させる画期的な発明だったと言えるけれど、そんなクリエイティブな発明過程においても、設計図や計算式のメモをはじめ、膨大な紙の山が築き上げられていることを忘れてはならないわ。そうでしょう?」


「は、はい。そうですね」


 彼女の言うことはもっともだ。


 もっともだけど……なぜ今、その話を?


「出口君。あなた、いま何か、自由に書き込みをしてもいいノートを持っていないかしら?」


 先輩はモニターから目を離し、こちらを見た。


「持ってますけど」


 僕はバッグの中から、ほとんど使用していない授業用のノートを取り出し、座卓に置いた。


「では使わないページを開いて。あと、言い忘れたけれどペンも用意して」


「はい」


 僕は言われたとおりにふでばこからシャープペンシルを取り出し、次の指示を待った。


 今日は何をさせられるのだろう?


 彼女は僕の用意が整ったのを確認すると、


「では、ノートの端のどこかに、現在あなたが直面している『解決したい問題』を記述しなさい。それなりに大きな字で、はっきり書くといいわ」


「解決したい問題、ですか?」


「別に『成し遂げたい目標』でもいいわよ。結果的にはほとんど変わらないから」


「成し遂げたい目標……」


 それはすぐに思いついたので、見開きにしたノートの左上の端に、そのまま書き込んだ。


 だが記述してすぐに、後悔することになった。


「何と書いたのかしら?」


 先輩はモニターを眺めながら言った。


「えっと……」


 僕は返答をためらった。そういう内容だった。いや、今さらためらう必要はないはずだけど……改めて本人を目の前にして言うのは、ちょっとどうかな、と思ったのだ。


「出口君?」


 彼女が催促するように一瞥を向けた。答えるしかないようだ。


「……『勝負に勝って、先輩と付き合うこと』です」


「なるほど。それがあなたの『成し遂げたい目標』ね」


「仰るとおりです」


 顔が熱くなる。一方の彼女は動揺した様子もなく涼やかで、なおさら僕の恥ずかしさを増大させる。


「では、その目標を成すには、何をする必要があるのかしら? そこに立ちはだかる障壁こそ、あなたの『解決したい問題』ということよね」


 なるほど、そのとおりだ。


「……九先輩が答えられないような、超難問を作る必要があります」


 ああ、これは何という種類の拷問だろうか……。思わず額に汗がにじむ。


「では、さきほどの『目標』から一本の矢印を引いて、その『解決したい問題』を、その先に記述してちょうだい」


「これ、何をしようとしてるんですか?」


 言われるがままに書き込みをしつつ、僕は尋ねた。


「私が最近知ったノート術を試そうとしているのよ。創造性を促し、問題解決や記憶の定着にも役立つそうよ。私はそれなりに効果があると感じたけれど、出口君でも再現できるのかどうか、気になったから」


「へえ、ちょっと面白そうですね」


 彼女が望むなら、ノート術を試すくらいやぶさかでない。


 その後も僕は先輩の指示に従い、矢印をいくつか引いて、解決のためのアイディ

アや、疑問点を書き込んでいった。アイディアが浮かんだらそれを自由に記述し、膨らませていく作業だった。


 自由に書いてよいと言われて少し困ったけれど、思いのほかすらすらと、ノートは文字で埋まっていった。


 例えば『超難問を作る』の項目から、『参考書を買い漁る』というアイディアが生まれ、『どんな参考書を買うのか?』や『予算の都合が……』といった問題が出たので、『父さんの部屋を漁ってみたら?』『図書館は?』などの解決策が浮かんだ。他にも微妙なネタだとか、『クイズの専門家に外注する』など、ナンセンスなアイディアも浮かんだけど、それも全部書き込んだ。


「一見してナンセンスだと思われるアイディアが浮かんだら、排除しないできちんと書き残しておいた方がいいわよ」


 先輩はそうアドバイスしてくれた。枠にハマらない発想が別の発想と噛み合って、点と点が線として繋がる場合があるらしい。しかもそうやって生まれた新たなアイディアこそ、良質なアイディアであることが多いのだとか。


 なんとなく脳内で何かくすぶっている感じを受けつつ、ペンを置いて一息ついた時だった。


「アイディアが浮かばなくなった時こそ、もうひと踏ん張りよ」


「え?」


 先輩は僕に目を向け、ブートキャンプの教官みたいなことを言った。休ませる気はないらしい。


「頭が凝り固まってきたような感じがしたら、もう一度最初に戻るの。そしてそもそも『なぜその問題を解決したいのか』、『なぜその目標を実現したいのか』などをあらためて振り返ってみると、また別の視点が生まれたりするわ」


「なぜ、と言われましても……」


 この人、どういうつもりで言ってるんだ?


 なんだか妙な気分だけど再びペンを取る。ノートの余白に『なぜだろう?』と書き込む。


 なぜ目標を実現したいのか。つまり、なぜ九先輩と付き合いたいのか、ということだ。


 僕はどうして先輩を好きになったのか。どうして分の悪い勝負をしてまで、彼女と付き合いたいと思ったのか。……エプロン姿が見たいから、じゃないことは確か

だ。


「何でもいいから、手を止めずに思考過程をそのまま書けばいいのよ。普段は意識下にある思考を可視化し、認識することが大切なのだから」


「はあ」


 先輩に促され、僕は手を動かした。ペン先が紙の上を滑る。自然と僕の思いがノートに綴られていく。そのうちに記憶がよみがえってくる。

 …………。


 

「九先輩はどうして『TIC』志望なんですか? 先輩ならもっと上の大学にだっていけるはずだって、みんなが話してたんですけど」


 あれは一学期の中間試験が終わったころだった。ナゾ解き同好会に、まだ僕以外の会員が複数在籍していた時期だ。その日は偶然にも九先輩と第四和室で二人きりになる機会があり、僕は勇気を出して質問をしてみたのだ。彼女のことを意識はしていたが、あまり会話をしたことはなくて、かなり緊張していたのを覚えている。


 彼女はノートPCから目線を上げ、僕を見つめた。


「そうね……強いて言うなら、変わった人がたくさんいそうな所だと思ったのよ。教授だけでなく、学生が」


「……変わった人、ですか」


 彼女から見て『変わった人』というのは、どんな人を指すのだろう。気になったけど、訊かなかった。その時の僕は、彼女があまり無駄なことを喋らない人だという印象を持っており、まともな返答をくれただけでも、ほっとしていた。


 そんな中、先輩はそっと溜息をつき、続けて補足するように喋った。


「本当は進学するつもりはなかったのだけど……いろいろと事情があったのよ。それで目ぼしい大学をいくつか視察して歩いて、私の将来の夢に役立つ出会いがありそうだと思ったのがあそこだった、それだけよ」


 進学を希望していなかった? 


 事情?


 視察して歩いたって、もしかして実際に現地まで行ったということか? 


 彼女の言葉にはいくつも気になる点があったけれど、僕が最も反応したのは、この一言だった。


「夢……?」


 TICとは有名な私立大学の分校だ。県外にある居琴市いことしという所のキャンパスだということは知っていたけれど、他の有名な大学──例えばT大、あるいは僕が目指している地元の国立大とどういう差があるのかは、僕にはわからない。まして偏差値だけで言えば、実は例に挙げた三校よりもTICの方が若干低い。僕の父なら、わざわざ高い授業料を払って県外の私立に行く意味がわからないと言うだろう。しまいには、行き着く就職先はみんな一緒だろう、なんて言いそうだ。


 ……と、ちょっと批判はしてみるも、僕だってその父と同じ価値観以外、持ち合わせていない。じゃあ他に何を進学先の選定基準にすればいいんだ、という問いに答えられない。だから先輩に質問したのだ。彼女は明らかに、僕とはちがう視点で世界を視ている。彼女のそばにいれば、自分にもそれが視えるんじゃないかと僕は直感的に思っていた。もっと近づきたい。常に彼女の隣に立って、彼女が視ているものをそのまま視たい。それくらいでないと僕の視ている世界は変えられない。そんな気がしたのだ。


 先輩の夢が何なのかを知ったのは、その十分後くらい。桂木が追放されたのと同じタイミングなのだけど、それは決して偶然ではない。



「もし作業が終わったなら、どんな風になったか見てみたいから、ちょっと貸してくれる?」 


 ひととおりノートを書き終えたかというところで、先輩がそっと手を差し出した。細い指先が視界に入り、僕は慌てた。


「え、いや、それは……」


 見開いたノートの端々には、赤裸々な内容が記してある。それなりに下世話なこともだ。


 また、この拷問パターンか!


「あ、あれ? 先輩、もう時間ですよ!」


 僕はとっさに部屋の壁に掛けてあるアナログ時計を指差し、立ち上がった。ノートを小脇に抱え確保することも忘れない。


「あら、そうね。気づかなかったわ」


 先輩も時刻を確認すると、いそいそと片付けを始めた。あまり利用者の多くない公民館ではあるけれど、時間どおりに退室しないと次の予約者が来ることもあるので、そのあたりはきっちりと守るのがマナーだ。


 助かった……。


「家に帰ったら、さっき書いたノートをもう一度、見直してみるといいわ」


 部屋を出る際、彼女がそう言った。


「はい。わかりました」


 その後、ノートの内容については追及されることなく、解散となった。


「……何だったんだろうな?」


 公民館を出て、自転車に乗った先輩の後ろ姿を見送りながら、僕は呟いた。



 帰宅後、僕は先輩に言われたとおり、もう一度そのノートを見直してみた。真面目なことから馬鹿なことまで、様々な項目が見開き一ページに同居していた。


 その中の『参考書を買い漁る』という項目が目に留まった僕は、何か良い本がないかと、父の仕事部屋に入った。父が所有している本はそれほどないが、本棚に並んでいる中に、面白そうなものを見つけた。日本のさまざまな統計データを収録した本だ。


「この本借りていい?」


 居間で遅い夕飯をとっていた父から了承を得たのち、部屋でそれをぱらぱらめくっていると、ありがたいことにアイディアが浮かんだ。


 結果、なんと三つも新作クイズが完成し、そのうちの一つは、なかなかの自信作だった。こんなことなら、もっと早く父の本を漁るんだったなあ……。


 明日は期待できそうな気がする。


 僕はわくわくしながら眠りについた。

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