キツネ憑き

辛口聖希

プロローグ

一、雨中

「もしもし?今、何処?」

 降り頻る雨の中、傘もささずにカケルの元へと電話を取る。先程からの無言は、雨音と一緒に夜の路上へと消えていく。私は悴んだ手を自分のものとは思えなかった。

「ねぇ、聞いてる?カケル」

 耳元のスピーカーは依然として声帯を動こうそうとしない。ましてや、向こうには誰もいないんじゃないかとさえ思えてしまう。

 目的地としている、カケルの家まであともう少し。へばりついた服は、まるで頭から離れないカケルの像のようだ。私は鬱陶しくなる気持ちを、服にぶつけたかった。

 「カケル、お願い!出てよ…」

 虚しく響き渡る。彼のスマホから漏れ出た音は私の声だ。彼はスマホの前にはいない。いや、繋がったときからきっといなかっただろう。画面に出た私の文字をきっと鬱陶しく感じたに違いない。私はもどかしい気持ちを押し殺しながら、雨の中足を動かす。しかし、濡れたスーツスカートは私を嘲笑っていた。

 笑いたいのはこの状況だ。私は心で憤怒する。

 カケル。鷹橋カケル。中学のときに、初めの席で、隣になったのが初対面。彼はその時所構わず寝ていて「なんで、そんなに眠たいの?」「昨日何時に寝た?」と尋ねれば、曖昧な答えか、「うるさいな」と言われるだけだった。それが、カケルを意識するきっかけだった。

 それから、日が経つにつれ少しずつ打ち解けていくうち、自然とカケルのことが好きになった。彼も、その気があるらしく2年の夏休みの補習から付き合うことになった。だが、今になってわかったことだが、その時彼は人を好きになる気持ちがわからなかった、という。今更聞かされ、私は少し頭の中が真っ白になったことを覚えている。

 カケルには少し、自傷癖があった。世間からすれば、メンヘラという形容が似合う人間かもしれない。

 初めて見たのは、中3の受験期に差し掛かった時だった。毎週土曜は私の家に集まって二人で勉強会を開いていた。カケルは私の他に交友関係を保とうとせず、勉強も怠惰を極めていたため、私が強引に誘ったのが最初だった。

 そのとき、ちらっと冊子を抑える手の袖口から、斬傷痕が見えた。

 不思議に思った私は、「何、それ」とそれとなしに尋ねてみれば、彼の顔は血の気を失せ、まるで邪魔者を見つけたかのような目つきをした。

 「何にもない」

 顔を俯かせ、袖口に目一杯腕を引っ込めた。真夏の真っ最中、彼は長袖を着用していた。

 「それ…何もないことないんじゃないの?」

 私は彼の袖口に手をかけた。刹那、私は彼のけたたましい声を耳元で聞いた。

 私は彼の手を握りながらも、その場で蹲った。私はそのとき、泣いたと思う。怖いとか、そういうのじゃなくて。

 私は彼のことまだ何にも知らないんだなって、その無力感に苛まれ、私は彼の手を握り続けていた。

 はっと、我に帰る彼は、私を見て、私に掴まれて、その場で呆然と立ち尽くしていた。

 私は泣きじゃくりながら、彼に訴えた。

 「そんなことしないでよ。大切な人が傷ついてるの、そんなの黙ってみてらんないよ。」

 彼は生気のない人間のように、膝をつき、咽び泣いた。

 その日からカケルはリストカットを止めた。しかし、その代償か私の身体を触り始めた。

 「何…?やめて…」

 最初、そういうことになりそうになったのは、高校2年の時だった。 

 彼は誰もいない教室の中、ひとり寝ているところ、「私が帰るよ」と声をかけると、ばっと顔を私に近づけ、そのままキスをした。

 初めての感覚になんのことだが訳もわからず、私はそのまま後ろの机に倒された。そういうことを何も知らないと思っていたカケルが、舌を滑り込ませてきた。

 何処で覚えたかわからないそれは、私を優しく溶かしていくようだった。しかし、囚われている場所でもなければ、年齢でもない。私は、必死にカケルに抵抗した。 

 しかし、成長期のカケルの体は薄くはなかった。女子の力にはびくともしないほどに大きくなっていた。

 「ふぁふぇふ…ひゃへえ…」

 もう一度、力一杯に押してみるも、びくともしない。むしろ、さっきから力も強くなっている。舌を入れてくるのも激しくなってきていた。

 「ぉおはへへ…!」

 そう震わせた時、廊下で箒の倒れる音がした。放課後の空っぽの校舎を破壊するには相応しい音だった。

 「はは!はるか、ちゃんと、もってよ」

 「だって、さとみがいれてたじゃん」

 掃除後の女子たちが掃除道具箱に箒を直していた。

 その音を聞いて、カケルはさっと私からは身体を剥がした。覆いかぶさっていた暑苦しい感覚が少しひんやりとした、空気にさらされる。

 「何、すんの?」

 よだれでベタベタな唇を拭うと、シャツがやけに崩れているのに気がつく。ブラが外れていていた。スカートに入れてあったシャツはすっかり、出ていた。

 「カケル、こういう」

 続けようとしたとき

 「はなちゃん。帰ろう。」

 遮るように、カケルは自分の乱れた服を元に戻す。私もすぐさま、シャツをスカートの中に入れ机から降りる。

 さっきの女子たちが教室の前を通った。扉、窓は閉まっているものの、やはりこもこよを後ろめたい気持ちはどこかあった。そう言えば、その気だったとも言えてしまう。

私は鼓動を抑えながらもカバンを持ち直し「行こう」とカケルに行った。

 この日を境に、どんどんエスカレートし、終いには大学入学を待たずしてヤってしまった。

 自分では、大学生ならいいんじゃないか、となんとく考えもなしに思っていた。その隙を突かれ、私は17歳にして喘いでいた。

 その後、大学、社会人になるにつれ行為は頻繁を極めた。加え、激しさも増すようだった。

 彼は定職についているらしかったが、教えてくらなかった。私もカケルのことだから無理に聞こうともしなかった。

 それが仇となったのか、今彼の住んでいるアパートの前へようやくたどり着く。

 息を切らしながら、セキュリティーのないボロへと足を踏み入れる。

 2-1。二階で一番奥の部屋。インターホンを鳴らしても、応答はない。二回三回繰り返してみてもやはりダメだった。

 悴んだ手を無理矢理ポケットに突っ込めば、部屋に鍵を取り出す。万が一のためと、彼から持たされていた。

 そんなことないと思っていたが、まさか万が一は来ようとは。

 緊張と寒さとに挟まれながら、鍵を滑り込ませる。ボロい扉の鍵は難なく開き、ロックは解かれた。

 そっと、扉を開け彼の名を言ってみる。応答はない。

 靴を脱ぎ、中へと入る。元々、家具が好きじゃない彼は部屋にものというものを全て、ダンボールに詰めていた。

 ダンボールが幾つかあるリビングは、住人の帰りをしばらく確認していないようであった。

 埃の溜まった床に足をつく、軽く部屋の中を見渡してみても、生活した様子はないのに等しかった。

 目当てのものを部屋の隅々まで探してみても見つかることはなかった。

 すでに、彼は、カケルはここにはいない。別の場所にいるのだろう。

 カケルのスマホの姿を私は見つけれなかった。

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