ジャイアントキリング~最弱勇者の番狂わせ~
毒原春生
プロローグ
赤く濡れそぼった爪が、何の躊躇いもなく振り下ろされる。
残像を描く速度の攻撃をかわすこともできず、一人の
「ぎゃあああああ!!」
血飛沫の後、屋敷の廊下に絶叫が上がった。
引き裂かれかけた腕を抱きしめながら、簡素な祭服を着た男が倒れそうになる。とっさに別の男が支えたが、それはあまりに無防備な行動だった。
「――ひっ」
「《壁よ、邪悪を弾け!》」
仲間を守る代償に与えられたのは、同じ攻撃。
後ろにいた仲間が障壁の魔術を行使したが、それは飴細工のように砕かれた。振り下ろされた凶器が、華奢な肩を切り裂いた。
「っ、ぎぃ、ぁ」
引き絞るような悲鳴を上げて、ぐらりと体が傾ぐ。
ここで動けなくなることがどれだけ危険かわかっていても、重傷を負ったままでとっさに動けるほど人の体は丈夫にできていない。男は仲間を抱えたまま、その場で膝をついた。
結果として、彼は見上げる形になる。
仲間に、そして自分に重傷を負わせたものの姿を。
それは、
犬や狼の耳と尾を生やした
五感に優れた獣人の中でも特に嗅覚に優れ、持久力はない反面、俊敏さと打たれ強さがあることで知られる種族だ。
また、狼に寄っている者は爪が鋭利になりやすく、それを武器に戦うこともある。
ここまでは、男の知識通り。しかし、男が知っているワーウルフの爪は、触れたもの全てを引き裂いてしまうような鋭さはなく、こんなにも禍々しくなかった。
何より――男が知るワーウルフはこんな、理性も知性も忘却したようなおぞましい顔を浮かべたことなど一度もなかった。
「グルルルル……」
「……あ、あ」
ワーウルフの形をした化け物が、唸り声を上げながら手を振り上げる。
恐怖のあまり、男はとっさに目を閉じた。聞こえてくる風切り音を他人事のように感じながら、彼は死を覚悟する。
だが、仲間を庇った報いもまた、彼の上には降り注いだ。
「グァッ!」
金属が弾かれるような音が響き、苦しげな声が耳を打つ。
覚悟していた痛みは来ない。恐る恐る顔を上げれば、すぐ真上には透明な壁があった。その壁が爪を弾いたのだと理解した直後、恐怖に引きつっていた顔が安堵で泣き出しそうになる。
こんなものを容易く造れる者を、彼は一人しか知らなかった。
「……勇者様ぁ!」
「うるさい。聞こえている」
歓喜の声に返ったのは、けだるげな声。
武器を構える祭服姿の者達の間から、一人の女が現れた。
褐色の肌に銀色の髪。尖った耳が特徴的な、
修道服から清楚を取り去り、露出という言葉をすげ替えたような服の女だった。扇情的な着衣のわりに表情は理知的なもので、かけられた眼鏡がそれをより強調している。
枯れた老人も奮い立つほど豊満な体だが、周囲の男達が向けるのは憧憬の眼差し。
この場で最も頼りになる人物の登場に、恐怖で萎縮していた彼らは色めき立つ。
「民間人は外に避難させた。こいつの相手は私がするから、お前達は外の班と合流して彼らを王都に連れて行け」
「はっ!」
勇者と呼ばれた女の言葉に、祭服の者達は背筋を伸ばして敬礼をとった。
「ガアッ!!」
そんなやりとりが終わるのも待たず、ワーウルフは魔力で編まれた障壁を殴りつける。二発目までは耐えていたものの、三発目で大きなヒビが入った。
「早く行け!」
同じ指示を繰り返す。
今度は敬礼する余裕もなく、廊下に複数の足音が響き渡った。
「さて。赤属性の魔術は不得手なんだがな」
言いつつ、広げた手のひらに魔力を集める。
並みの術士の場合、魔術を行使するには最低でもワンセンテンスは詠唱し、言霊によってイメージを固めなくては正しく効力を発揮しない。発動しなければマシな方で、最悪の場合だと暴発するといったケースもありえた。
しかし、女はそんなセオリーを無視する。
触れればただですまないことは、一目瞭然。
一撃必殺と言っても過言ではない、雷鳴の一矢だ。
そんな一撃は文字通り光の疾さでワーウルフを貫かんとし――
「グルゥ、ァァァ!!」
それ以上に疾く駆動したワーウルフが、咆哮とともに女へと飛びかかった。
「っ!?」
驚愕の表情を浮かべながら、とっさに床を蹴って飛び退く。
しかし、不意をついた攻撃は十全に回避できない。振るわれた爪が太腿を引き裂き、そこから血が飛び散った。
痛みに眉をひそめつつ、女はもう一度跳躍してさらに距離をとった。
紫電は外れたわけではない。狙ったところには当たらなかったが、ワーウルフの体には確かにかすり、その衝撃は全身に響いたはずだ。
痛みを我慢できても、雷電によって四肢が痺れれば体は動かなくなるはず。
だというのに、化け物は構わず動いた。
その体躯が従来の限界値を優に超えているのは、明らかだった。
「満月級になったか」
舌打ちを一つ。
それと並行して再び魔力を練り、掌底をワーウルフに向けた。
続けざまに放たれる紫電の矢。
それは再びワーウルフに被弾するも、行動不能に追い込むには至らない。立て続けに撃ち込めばあるいは。しかし、そんな無謀を試す気にはなれなかった。
「ちっ」
二度目の舌打ち。
そして、もう一度掌底を突きつける。
「グォ…!?」
途端、吹き荒れる風。
壁紙が剥がれかけるほどの暴風が廊下に発生し、ワーウルフを後方へ吹き飛ばす。点の攻撃には対処できても面の攻撃はどうにもならなかったようで、ワーウルフとダークエルフの距離はいっそう大きく開いた。
それを見て取ってから、女は迷わず背を向けて走り出した。
走るたびに太腿が痛むが、構うことなく疾走する。
(――――さて)
背後から聞こえる咆哮に合わせて魔術を放ちながら、女は思考する。だが、すぐに小さく笑った。
妙案が浮かばなかったわけではない。
むしろ、その逆。
ぶつけるべき人物は、一人しかいなかったからだ。
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