しあわせは雨のように
篠岡遼佳
しあわせは雨のように
雨だ。雨が降っている。
春を告げる雨だ。
エントランスのガラス窓が完全に曇って、涙のように滴が垂れている。
ドアが開いた瞬間に匂いでわかったのだが、17階まで傘を取りに戻るのはかなり面倒である。だいいち、今日はもう何も考えず退勤すると決めたのだ。
少し小降りになるだろうことを期待して、私は雨に濡れて帰ることにした。
頭も冷えるだろう……そうすればこの怒りのようなものも落ち着くに違いない。
「――ほんと、今日は最悪だった」
「美香ちゃん美香ちゃん、大丈夫ですか?」
私が独り言を言ってビル群から駅へと向かっていると、空から少女の声が降りてきた。実体を伴って。
濡れちゃいますよ、と言いつつ、持っていたタオルを私の頭にかけてくれる。
それは金髪で、水色の瞳をしている、線の細い、そして翼を持った存在だ。
つまり、天使だった。
――ひとでなしのカミサマが我々に「天使」を遣わしてから、時は大分経った。
なぜひとでなしか。
そりゃ、犠牲になった純粋無垢の存在がたくさんいたからだ。
でもそれは、教科書に載るようなものとして処理されてしまった。
いま、天使達は、私たち人間と同じように生活し、年は取らないが死にはする、なんとも曖昧な、そう、ちょっと世間からずれたような存在としていろいろなところに出没するようになった。
奉仕が彼――彼女――まあどっちか――の、基本精神だという。
だから、様々な人間が天使と暮らしている。
何をされても嫌な顔一つしないのは、彼らの特性だ。
だから、彼らの多くは医療や癒やし、介護の方面に職を持つことになった。
私としては、「世界を看取ってんじゃねーのか」という直感が、なくはない。
でも、たとえそうでも仕方がないのが、人間とこの地球の関係であろう。
さて、私はどこにでもいる会社員である。
まあ、とりあえず、義務教育で天使を知り、町中で天使に出会い、どういうわけか天使と暮らしている。
ネコよりも、ネズミよりも簡単に、彼らは捨てられる。何しろ最初に億単位で地上に降り立ったもので。
最近では数も減り、扱いも変わっていっているが、にもかかわらず、彼女は寒い冬の日に捨てられていた。
手に缶チューハイ(二本目)を持ちながら、適当にふらふら自宅の周りを歩いていた私は、酔いに任せて彼女に声をかけた。
(まえのご主人様は、私の奉仕では満足していただけませんでした)
(奉仕?)
(主に、ベッドに呼ばれて、服を脱いで……)
(あ、うん、わかったから、その先はいいや。一応私はそういうコトしないと思うから、うちに来るかい?)
(私を拾おうと思ってくださった時点で、あなたは私のご主人様です。あなたと行きます)
地元の商店街は、今時珍しく、有線なんかが流れている。
だが、どの歌も。
「歌詞がみんな一緒に聞こえることにイライラする。情緒不安定だ」
「ジョウチョフアンテイ?」
「そう。仕事のできないベテランが来て、私の仕事の予定を引っかき回すだけ引っかき回して、仕舞いには休憩を寄越せと行ってくるようなヤツがいて怒ってるの」
「それは、怒ってる、だよね」
「そう。それに、LINEに返事を寄越さない恋人にもイライラするし、ちょっと人が死ぬ程度の小説で泣くし、もうヤケになってこうして花束買うくらいには、心がささくれてんの!」
そうわめく私の左手には、スイートピーの色とりどりの花束が握られている。
いつも通っている花屋さんに、あるだけ包んでもらった。
甘い香水のような静かな香りに包まれて、ようやく人心地ついた気がする。
水たまりを踏みつけて歩く私の隣で、彼女は困ったように微笑んだ。
そして、どこからか取り出したメモにその初めての単語を書きつける。日記だ。
「3月20日水曜日、今日の美香ちゃんは、じょう……情緒……不安定、だそうです」
「よし、もう、ついでだから珈琲屋さんにも行こう。ほらあの、変な……」
「車がどーんとあった……週末に見つけたカフェですか?」
「そう。カフェモカのLを頼むわよ。しかもアイスで」
「美香ちゃん、ダイエットはどうするんですか!?」
「今日はいいの。情緒不安定なときはね、情緒を元に戻さないといけないんだよ。
大人だし、明日も仕事だしね!」
「おとな……」
小首をかしげて、彼女は自分の服の裾を引っ張った。
それは、私の服で、丈が中途半端過ぎて、仕舞っていたワンピースのパーカーだ。
彼女たちは大人にならない。少年少女の姿のままで、不可逆的な外傷がない限り、死なない。
それについては、少し話したことがある。同じベッドで横になりながら、手をつないで。
(わたしはおとなになりません。代わりにごはんも食べません)
(仮に、ごはんを食べると?)
(試した人はたくさんいますが、普通におなか壊すみたいです)
(うむ、貴重な証言だ。消化器官や排泄孔はあるんだね)
(私は……私は、美香ちゃんの役に立ちたいのです。何をしたらいいですか?)
(いいよ、そんな、そこにいてくれるだけでうれしいもの)
(そう、そうですか? ――ほんとう?)
そのときだけは、本当の少女のように、まっすぐな瞳で彼女は私を見た。
(ほんとう。少なくとも、私は、嘘つかないから)
(――信じます。あなたを、信じます。ずっと)
そんな瞳で言われたら、もう絶対に、その無垢な信頼を反故にすることはできないなと、私は思った。
「おとなに、なりたいかい?」
「もしそれで、美香ちゃんの役にもっと立てるなら、なりたいです」
「じゃあ、そのままでいて。私、君のことけっこう気に入ってるからさ。かわいいところも含めて」
「か、かわいい??」
彼女はびっくりしたように、コロッケの入った袋をぎゅっとつかんだ。
「あれ? 言われたことないの?」
「歴代のご主人様は、あまりお話をなさらない方で……」
「ふん、何を見てるんだか」
私は、自分の欲ばかりしか与えてこなかった歴代のご主人様とやらを、情緒不安を言い訳に全員いい感じに心の中で命を奪ってみた。
「あのね、君はとってもかわいいよ。嘘ついてないからね。
笑っててくれたらもっとかわいいし、一緒にいるだけで……」
――しあわせ。
私は雨に紛れるように、そっと彼女の耳元でささやいてみた。
彼女はぽん、と音を立てたように赤くなり、
「…………」
と、何やらもぞもぞと呟き、もじもじしている。なんともかわいらしい。
「さあ、早く帰ろう。君のタオルもそろそろびしょびしょになってしまう」
「はい、美香ちゃん」
彼女が笑うと、白いタオルと雨の滴が、金髪にきらきらと光った。
私は彼女の手を取って、自宅を目指した。
ああ、暖かいな。
生きている彼女を見つめて、私は少し笑った。
――しあわせって、初めて言ったけど、うん、これはほんとに、本当なのかもしれない。
しあわせは雨のように 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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